この金物屋は, なかなかわしらには思いでぶかい店なのであるが, このほど閉店してしまうらしい. 店内全品 半額セール中である.
で, わしらはその店のことを, 通称して 「ノモンハン」と呼んでいるのである. 今回は, この通称の由来の話じゃ.
店は, おっさんとおばちゃんの二人でやっているのだが, その, おっさんの方が, これが 金属加工系職人属性の, かなりおかしな奴なのである.
当時, わしらはナイフの自作に凝っており, タウンページを開いては鋼屋を捜し, 熱処理業者を捜し, 加工業者を捜し, 電話し, チャリででかけて話を聞き, おかしなものを徹夜で作り上げては持って行き, 失敗してステる, という日々を送っておった.
金属加工の経験があるものは, 一人も居ないので, 材料やら加工の段取りやらが解ってる奴が誰も居ないわけで, 何かにつけ とりあえずやってみる という方針で馬鹿なものを作っては壊すという感じだったわけだ.
そういうことをやっておれば, 当然, 学校の前にある金物屋は目に入る. 金属加工にヤスリ, 砥石, 紙ヤスリは必須の消耗品だ. あと, 鉄工ドリルに鋸ね. それらが学校からスグのところで買えれば 非常に便利だからな.
最初にその店に入った頃というのは, 「鉄に焼きが入るためには, 炭素が必要」 くらいの知識しかなく, 鋼にどんな種類があるのかも知らなかった. そんな, 何も知らないわしらは, 件の金物屋に鉄ノコの刃を買いに行ったわけだ. 弓型のハンドルに細い刃を取り付けて, 押し切りで使うタイプのノコである.
鉄ノコの刃には, 大きく分けて2種類がある. 一つは非鉄材料用で, 素材は SKS あるいは SK 材に 高周波焼き入れ等したもので, 一本 50円から 70円前後. もう一つは, 鉄工用で, 素材は SKH もしくは バネ鋼に SKH の線材を特殊な方法(ビームとか) で 溶接した複合材料, というか, 要するに刃が高速度鋼でできてるやつである. こっちは 3倍くらいの値段だ.
金もないから, 当然, わしらは SKS の, 非鉄用のを 買おうとするわけだ. 隣にある SKH の刃は, なんせ値段が 3倍だ. しかし, それだけ違うと何か気になるものだ. 一体, どこが違うから, そんなに値段が違うのか？
で, 訊いたわけです. 「これ, どう違うの？」って.
おっさん, よくぞ訊いてくれました って感じで, 説明してくれましたよ.
この鋼はなあ. ハイス(*) ってな. そんじょそこらの鋼とはワケが違うんだ. この鋼に比べりゃあ, そこら辺のハガネなんか ハナシにならんわな. もんのすごく硬いんだ. でもな, 硬いだけじゃ ないんだ. ネバリが違う. これがどういうことか解るか？ え？ おい.
その昔なあ. あれは ノモンハン事変 の時だ (と, 遠くを見る目になりつつ). ロシアの戦車の装甲はみんなこの鋼でできてたんだ. それだから, いくら日本の戦車が大砲撃ったって, まともにあたっても, こう, ビヨーン ってなもんで, タマをみーんなハネ返しちまうのよ. こう, ビヨーン ってな (と, 手を曲げて砲弾をビヨーン と跳ね返すしぐさ). なもんだからさ, いくらタマが当たっても, てんで話にならんわけよ. そういう鋼なんだよ. これは.
この鋼に比べりゃ こんなもん, (と, 安い方の刃を示し) クズ よ クズ.
そりゃあ, そこまで言われりゃ もう, ハイスの刃を買うしかないでしょう. 果たして, 特殊鋼の加工に, ハイスのノコ刃は絶大な威力を発揮した. SKS の刃は, 力を入れて切るとスグに焼きがナマってしまい, また, 鉄が刃に焼き付いて, あっというまに切れなくなってしまうのだが, ハイスの刃(500度まで焼きがナマらない)は 刃に付けたマシンオイルが白いケムリになって立ちのぼるほど 力まかせにブった切っても なんともないのである(そのためのハイスなんだから, あたりまえだ).
以後, そのオヤジは, わしらの間では通称 「ノモンハンおやじ」と呼ばれるようになり, 店は, それにしたがって, 単に「ノモンハン」と呼ばれるようになったわけだ. 「ちょっとノモンハン行って来る」てな具合である. わしがいままで作ったナイフの材料は全部ハイスだが, その選択がこのおっさんのおかげであることは, 言うまでもないだろう.
さらば ノモンハンよ.