今の設定では, control-k が, region-active のときは kill-region になり, そうでないときは kill-line になるわけです. これは非常に自然なので, あっという間に慣れてしまったおかげで, よそのサイトで emacs を使っていて, kill-region のつもりで control-k をタイプしてキレそうになること しばしばです.
デフォルトではこれらは別の関数として別のキーに割り当てられているわけだが, これはどういう事情によるものだろう?
の関係ってのはある程度相対的なもので, 「これはデータ」とか いうふうに扱いを固定化してしまうのは, 自由なプログラマブルマシンのポテンシャルを発揮させる上では あまり良くないことのように思える.
こんなことは全然当り前なことであり, 俺が最初に気づいたわけじゃない. unix のファイルってのが, まさにこの洞察の元にこのような設計に なっているわけです.
ある程度相対的ってのは, 普通はデータではありえないようなものが 存在するからで, それはたとえばカーネルだったりします. バイナリのユーザプログラムも普通はプログラムでしかありえないわけだけど, たとえば "-g" 付きでコンパイルしてシンボルテーブルが入ってたりしたら, 突然, データとしての側面を現すわけですね. もちろん, カーネルだってデバグするわけですが, 普通はしないわけですから, こういった相対性は無制限に成り立つわけではない.
画像データのように, 通常はデータでしかありえないようなものであっても, 画像ビュアなどのプログラムをインタプリタとして考えれば, 画像ビュアの振舞を制御するプログラムとみなせます. ただ, 常識的なプログラムとちがって, 変数とかが正面に出て来ませんが.
人間がコンピュータを扱って行なう操作も, コンピュータが望ましい動作をするように行なうプログラミングです. マウスやらキーボードやらの操作は一つの言語で, 望ましい動作をしてもらうためには, この言語に含まれる記号を 適切な順番に並べてコンピュータに与える必要があるわけですな. そうであればこそ, 巷の 「コンピュータ教室」の存在意義も明白になるというものです.
データとプログラムの関係は相対的なものだという洞察を非常にスルドク表現しているのが, 一つは unix であり, もう一つは LISP だ. 自由で強力であればこそ, 使い始める敷居も高くなりがちなのは当然なのであるが......
などということを, 現実逃避としてあれこれ読みつつ 十年一日の如く呆っと考えている今日この頃. ああ. 良い天気だなあ.
先日のツーリングの写真ができあがった. といっても, カラースライドだが.
なんでカラースライドかというと, それが一番性能が良くて信用できるから. デカく映してみんなで見れるし, 「これわ」というカットは プリントもできる.
その性能は圧倒的だ. 雑誌のデジカメのテストを見てて, 一コマだけ飛び抜けて素晴らしい画像があり, 「おおお! これだけむちゃくちゃキレイやんけ!!!」 と思ってキャプションみたら, Nikon F5 と フジクロームだったりしたので, 結局 CONTAX T3 とフジクロームになっちゃった.
置いとく必要の無い写真は撮らないのです.