コンピュータはプログラミングしてこそ面白いということを あらためて認識。
を探す旅が始まった。 とりあえず銀座4丁目交差点付近に、 ソレ系の店があったような記憶を頼りに、 出発。
おお。あったぞ。 では、表に自転車置いて、 メットかぶったまま店に突入。 店内は、犬やら猫やらなんだか判らないものやらの ふわふわしたぬいぐるみが溢れており、 壮絶なるほんわか空間となっている。 あーっ。 ダメだ! このなかからアザラシを目grep するのは、 俺には不可能だ! 不可能となれば、あとは店員に訊くしかあるまい。
「すみません。 アザラシありますか?」
無かった… 鬱。
というと、数学的に言えば、 俺の今居るここも宇宙なのである。 だが、ここ数十年の慣習にしたがうならば、 宇宙とは地球以外の領域のことだ。
20世紀も半ば、ひとしきり地球上のあちこちの探検が終った。 そのクライマックスを飾ったのは、エベレスト登頂である。 そのころから、残る地球以外の空白領域を「宇宙」と呼ぶようになった気がする。 「宇宙。それは、人類に残された最後の開拓地である…」 というのはスタートレックの始まりの有名な文句である。
地球上で行けないところが無くなったら、次は宇宙。 というのは非常に自然な発想であって、 エベレストが登頂されたら次は難しい道筋を通って登頂してみよう、 であるとか、あまつさえ最年少記録に至っては、実に愚劣で異常な発想である。 普通に登れる道があるのに、わざわざ横っちょの薮やら岩やらにしがみついて ハァハァしているアルパインクライマーの俺が言うのもなんだが。
しかしながら、この、宇宙というのは当り前ですが、 体力とか気合いとか根性だけでは如何ともしがたいものがあるわけです。 (当時とすれば)未知のテクノロジーが必須である。 まさに、人類としてのフロンティアに相応しい領域! これに比べればエベレストの登頂などは、 予算規模からいっても、必要な努力からいっても、たかがしれたものだ。
だが、そういったテクノロジーや組織、予算といった 個人の力ではなかなか難しい要素が必須だからといって、 決して、これらのプロジェクトに関わる人々に、 危険を冒して未知の領域に挑戦するガッツが不要になるわけではないのだ。 ここを間違えてはいけない。 なんせ宇宙だ。 人間が生きて行ける環境ときたら、 せいぜい地上の熱帯どまりなのである。 あとは、服や家屋という道具を使って熱帯の環境をテイクアウトしているに過ぎないのだ。 これを忘れてはいけない。 言うまでもなく、宇宙で生きていくなんて、人間にとっては却下、論外、問題外。 たとえ、いかなるテクノロジーと地上からの支援があろうとも、 途方もなく危険な場所にでかけるのだという事実が変わるわけじゃない。
ここ20年ほどは、シャトルの時代になって、 宇宙に行くのは飛行機で隣の大陸にでかけるのと たいして変わらないかのような感もある。 もはや宇宙にでかける、ということ自体は何の価値も持たず、 宇宙に行って何をするのか、が重要な時代になりつつあるということだろう。 しかしながらテクノロジーが進歩したからといって、 重力が無くなるわけでも宇宙に空気ができるわけでもない。 今回の事故は、宇宙に行くとはどういうことか、思い出させてくれた。
俺は、地球に戻って来ることなく本当に星になってしまった人々に敬意を表する。
何度か宇宙にでかけた人類に危機が訪れたことがあった。 もっとも有名なのは、「アポロ13」であろう。 宇宙船の主要な酸素タンクが月に行く途中で爆発し、 その酸素が全部無くなっちゃった状態で月の向こう側を回り、 残った酸素をギリギリまで食い伸ばして戻って来たのである。 彼らは、ねがったという。 このままどっか知らない宇宙の果てで凍えて死ぬのだけはイヤだ。 たとえ燃え尽きる事になったとしても、 せめて地球の大気圏まではたどりつきたい、と。
だからといって、今回の事故はまだマシだといいたいわけではないのだが。 しかし、 「アポロ13」の頃からすれば、 今回の事故は何だかお粗末だなぁ、という印象。