入れ子構造というものに、俺は烈しく萌えるのであります。
「千一夜物語」を読んだ事のある人ならば、経験があろう。 これに収録されているさまざまな物語は、作中の登場人物シャーラザードが語る、 という体裁になっているのである。
ところが、 シャーラザードの語る物語中の人物が、 ストーリーの中でまた物語を語り始めたりするのである。
俺も、これを読んだのはずいぶん昔のことなので、 この入れ子が何段組みになってたか憶えてないが、 いずれにせよ、通常、劇中劇の入れ子の深さはせいぜい1段なのである。 たとえば、遠野物語。あれは、実在の人物が語る体裁である。 その体裁故に、あの本は「民俗学」の文献として存在しているわけで、 いきなり物語に入っちゃったら別のジャンルに分類されてしまうのである。
あるいは、薔薇の名前。 これは、Ecoが偶然手に入れた、14世紀の修道士の回想録からの翻訳、という体裁になっている。 詳しいイデオロギー的主張は知らんが、 とにかく、 いきなり物語に入る、ってのは Eco としてはやってはならない作法なのであるらしい。 映画ではそうなってなかったのだが(笑)。
これに対して、千一夜物語の入れ子の深さは尋常ではない。 こんな入れ子を喜ぶのは、 LISP系ハカーくらいであろう。 如何なる理由によって、このような体裁をとるようになったのであろうか? 誰か、このテーマについて研究した者は居るのであろうか?
ところで、俺はなぜ入れ子が好きなのであろうか。 わからん。 とにかく、 このような構造に烈しく萌えてしまう、心理的傾向というものが存在するらしい。 ミルクの缶のガラに描いてある少年が持っているのは、 そのミルクの缶。その缶には、やはり少年の画が描いてある。
久しぶりに仕事。 朝から客先の会議に出たりして。
採用の面接を受けに来た奴と間違えられたりした。 なんでやねん。
明日はレースだ。
ところが朝9時スタートなんで、出発が朝5時ということは朝4時起床!
屍む。
ま、今シーズン最初の試合なんで、テキトーにやりまっさ。