あらゆるハク(2003/10/15)


ハカーと… パート2

絵描きが hacker と似てるという話は既出ですが、 これは hacker というよりは創造力に富むプログラマという感じです。 hacker とは創造力に富むプログラマのことである、 というのならそれでよいのですが。

俺としては、システムの限界を追求するタイプの人が hacker である。 それは何かにつけ「とりあえず動けば良い」 という事はありえないし、許されない人々の事である。 システムの構造を把握し、限界を追求し、可能ならばそれを拡大する。 そして、必ずしもそれが至上命題というわけではないのだが、 ついそうやってしまう。気が付くと新しく買って来たデジカメを分解してる。 そういう人である。

hacker というと素晴らしく優れた知能と、 システムをいじくり倒す非凡な集中力とひきかえに、 運動神経やら体力やらを失った、 いわゆる昔の否定的文脈に登場するヲタクに似た存在というイメージがあるかもしれない。 複雑なシステムの事については通暁しているくせに、 自分の肉体の操作となるとカラッキシという通俗的イメージである。

そして、逆に、スポーツマンというと脳味噌まで筋肉でできており、 なーんも考えておらず、「オッス!ちからイッパイやるだけです!」というイメージである。 とりあえず身体能力というか運動能力というか、そっち方面を拡大するために、 規定されたメニューをこなす事だけに集中セヨ、 何も考えるな!みたいな。

実際には、スポーツマンこそ hacker なのである。 彼らは己を hack してやまぬ人々である。 肉体の構造に精通し、システムの欠陥と利点を把握し、 効率と出力を追求する。 肉体の最適化のみならず、最適化システム自体も最適化しなくては気が済まないのが スポーツマンという人々である。 言うまでもなく、アホでは勤まらないのである。

そもそも、末梢なくして中枢の存在意義など無い。入出力の無いコンピュータが無意味なのと同じだ。 生命においてはこれがもっと本質的な意味で関連している。 中枢が発達するためには末梢からの豊かな入力が必要であり、 末梢が発達するためには中枢から強烈な入力が必要だ(要するに特訓だ)。 逆に、末梢がヘタレてくれば中枢もダメになり、中枢がダメになれば末梢も衰える。 「肉体だけを鍛える」なんてことはありあえない。

プロパーな hacker とスポーツマンに共通する心理的傾向がある。 それは、「困難に挑む事が好きだ」という傾向である。 hacker は困難に挑む事が好きである。 困難な課題を見るとゾクゾクし、俄然やる気が湧いて来るのが hacker である。 スポーツの人もまた同様である。 困難であってなおかつ美しい目標が存在し、それを達成するために システムを洗練する。 そしてそれが大変であればあるほどやる気が出るというのがスポーツマンであるが、 このような心理的傾向は hacker 的メンタリティと共通するところだ。

困難であればあるほど燃える人々というと、なんといっても数学者であろう。 数学自体非常に美しく、面白いのであるが、 その魅力の多くの部分を占めるのが「課題の困難さ」であることは、否定しがたいところだろう。 なんといっても数学は難しい。だからこそ数学には価値があり、学ぶに値する。 そもそも世の中に存在する困難な課題のうち、 45% は単にややこしいだけの課題であり、 53% は課題が間違っているのであり、 真に困難な課題は 2% しか存在しないのである(俺調べ)。 ところがだ! 数学においては、実にその89%が真に困難な課題からできているのである! これはおそるべき数値ではないだろうか! なお、 残る10%は偏屈でイヤミな性格に起因して困難になった課題であり、1%はそもそも解決不可能の課題である。

数学が好きだという以外に、数学が「もっとも難しいから」それを選んだ、 という人は多い。 そして、数学者の知能はまさに圧倒的! どれくらい圧倒的かというと、 よく昔のジャンプで、はちゃめちゃに強い登場人物が出て来たものだが、 それくらい圧倒的である。 俺が3日かかって考えて解らないところが3分で解ってしまうのである。 おそらく俺と Lance Armstrong の有酸素運動能力の差よりも烈しい差であろう。 もう、がっかりするくらいの違いであり、努力する気も失せる差である。

話がそれたが、 まさに、彼らは己の知能を hack する人々なのである。 その未来にイデアの恩寵のあらむことを。

知能

なかなか難しいとは思うが、知能の定量化というのは面白い課題である。 定量化は無理としても、定性化くらいはできないものだろうか。 つまり、数学で言えば距離関数は定義できなくてもいいが、 とりあえず位相空間くらいにはなっていて欲しいと言う感じである。 かえって解りにくいか。スマソ。

要するに、考えるスピードが速いというのは、知能が優れているということにほかならない。 コンピュータで考えても自明であろう。 競争が存在する局面では、キーになる概念は「時間」である。 目標が存在したら、それにより早く到達した方が勝ちだ。 競争とは相手が存在する限りにおいて相対的なものだが、 一般化して考えるとそれは時間との戦いである。 より多くの時間を獲得した方が勝利するのであり、 権力を持っているのであり、より自由なのである。 それゆえ特急に乗るには別料金が必要になり、 スピード違反には罰金が課せられ、 金持ちは競って速い車を買う。 そして、知能においてもまた、速い事は真理であり正義であり美である。 歴史上有名な数学者で暗算の達人だった者は多い。

もう一つの要素は容量である。 たくさん憶えてる方が賢いし、ずっと憶えてる方が賢い。 ちょっとしか憶えられず、すぐ忘れる奴はアホである。 容量の評価は簡単そうだが、実際にはそれほど簡単ではない。 バイナリデータという形式になっていれば情報量は簡単に評価できそうに見える。 右クリックして出て来る「プロパティ」掲載数値を読むのではダメなのか? 結論から言うと、それでは不十分なのである。 同じサイズのファイルであっても圧縮すると異なるサイズになるのが普通だ。 つまり、データの長さだけでは容量は決まらない。 では、サイズと圧縮率で評価できるのかというと、これがそうでもない。 圧縮率はエントロピで評価できるのだが、完全にランダムな情報というのは これまた人間にとって無意味である。

知能を評価するには、容量と速度だけでは十分ではない。 キョーレツにたくさんの数値演算を、全部暗算で一日かけてやるよりも、 コンピュータで10分で片付ける方が「頭が良い」。

繰り返しなど、同じもの、似たものをまとめて扱う能力。これも知能の重要な性能の一つである。 つまり 抽象化である。 抽象化せずに、同じ事を延々とやっているのは、 たとえその処理能力が超人的なスピードであっても、 アホであるとみなされる。

たしかに、これも結局は速度の問題なのである。 なぜなら、抽象化すれば、ナマで扱うよりも速い! ジワジワと一つずつかかる時間を削っていくよりも、 抽象化すれば劇的に速くなる(場合がある、笑)。 だが、抽象化にはそれ以上の恩恵がある。 ただ速くなる、というだけではない何かがある。

そう考えると、筆記試験というのは実際、悪くないシステムである。 たしかにこれによって処理速度と記憶容量をかなりの程度、正確に評価できる。 コンピュータが普及すれば人間が数値演算をする必要はなくなるかもしれず、 そうなれば数値演算のテクニックを競うという形式の筆記試験は一見すると無意味かもしれない。

しかし、「コンピュータの操作」なんぞというどうでもいい技能よりは人間が数値演算を行なう技能の方がずっと意味がある。 コンピュータのインターフェースってのはプログラマブルなものであるべきである。 すなわち、それはユーザが好きなようにカスタマイズできるというだけでは十分ではなく、 好きなように構築可能なものであるべきである。 したがって、それを「学習」するというのはもうどうしょうもなく無意味で愚劣な行為である。 ましてその成果を評価するとなれば、もはや絶望的。 世の中あらゆる科学技術の基礎となる数値演算と微分積分と代数学という技能の方がずっと普遍的で学ぶに値するというものだ。 そういう事を考える奴は知能の3要素のうち、おそらく 「抽象化」の能力が欠如した奴ということだろう。

そういえば筆記試験で抽象化能力を測定するのは難しいかも知れないな。

チャリ

先週はカナダで世界選手権をやってたわけですが、 エリート男子ロードは、 Igor Astarloa が、 タイムトライアルは David Miller が勝ちました。


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