たまにゃ格調高く(2004/08/30)


くるりんぱ

くるりんぱ

新橋でやってたイベント

なんか絵本も3冊買ってしまった。妻も3冊買っていた。

しかしこりゃ新橋もずいぶん様変りしたものですね。

George Daniels

イギリスの力学振り子時計技術者である。 自らをグレアムやハリソンの直系とする、 ハードコア メカニカルウォッチ ハッカーだ。

その著書、 "Watchmaking" は、 コンピュータの世界でいうところの Structure and Interpretation of Computer Programs のような本であろうか。 やはり SICP のように手ごわく、かつ、非常に面白い本である。

この本は、ユキリンの小堀社長に借りました。

マズイ。かなりマズイです。 俺もヒジョーにですね、何かこう作りたくなっていますよ。 こう、アレですよ。 星座が出る懐中時計が欲しいですね。 本には恒星時と太陽時を両方表示するモデルの仕組みなんかも 掲載されてまして、星座が出る奴は、 それの輪列の配置をちょいといじくればできますから、 なんか手出してしまいそうですよ。 でも、こういうのは作るくらいなら買った方が安くつきそうですがね。 がっはっは!

デンキの助けを借りない!という断固とした決意というのが、 メカマニアの一部に見受けられ、 この George Daniels さんも、時計に関してはそういうポリシを持つ一人である。 俺はそういう拘りはあまりないのですが、 そのキモチは判るんですよ。 しかし、なんでそういうキモチになるのでしょうね。 そこんところの理由はなんだか良く判りませんな。 実際のところ、たとえば星座出る時計なら、デンチで動いた方が便利でしょう。 だって、 せっかく星座が表示されてても、懐中時計サイズの星座早見盤では、 夜空じゃデンキのあかりがないと全く見えまへんで。 デンキのあかり以外にルーペも要るね。

こういう依怙地な拘りは、 「エンジン使わずに移動する」というのと似たようなものなのかね。

いやしかし、このダニエルズさんの作った時計というのが、 ネジをネジ巻きキーで巻く方式なんですがね、 どれも非常にカッコイイんですよ。 「機械を芸術的に仕上げるなどということは、 技術的な要素においてに誇るべきところを持たぬ者のやることであり、 宣伝と売行き以外の意味は無い。 また、言うまでもなく紳士にはそのような製品は無縁である」 と言い切るところなど、超ナイス。 確信犯のハードコア。 言うだけあって、作品の多くは普通の脱進機ではなく、 デテント式や同軸式(彼が発明した方式)を用いており、 しかもツールビヨン構成である。

とりあえず、今まで解らなかった事が、 この本でかなり解るようになったよ。

精度を維持するためのアプローチには様々なものがあるが、 ダニエルズ氏の、 調速装置の構造から根本的に改善する、という、方式がもっとも スルドくメカマニアの魂を直撃するものであることは言うまでもない。

ダニエルズさんが俺の魂わし掴みなら、 一方、こちらは俺の受けた教育ないし知識背景と 親和性のあるアプローチである。 小牧昭一郎氏の調速理論。これも借りて来た。 セイコー舎の精度コンクールを指揮した理論家の一人である。 フリコの振動周期がおかしくなる原因を、 物理学を使って徹底的に研究するという方向だ。 まず定性、つぎに定量、さらに条件を細かく設定し、定性分析、そして定量へという 王道のアプローチが、 1960年代末にスイスの精度コンクールでスイスの名門をまとめてぶちのめしたのだそうだ。

それにしても、微分とか積分とか、マジ懐かしいっす。

なんか、今は若干デムパ源ですか?小牧先生。

ちなみに、小牧先生、実技のほうはさっぱりで、 時計の実物をいじらせると壊しちゃうそうです。

スチームボーイ

だいぶまえにみにいったんですよ。小笠原行くまえですな。

すっげぇ作画レベルですが、一方でスジも演出もイマイチ間が抜けてました。

ただ、観たあとスチム一家の爺さんが憑依してこれがなかなかとれず、 難儀しました。

真鍮でできた新しいキカイがキラキラしてる様子の表現が素晴らしいです。

Big Wednesday

ずーっとすっとばして、最後の大波が来るところだけみた。

前半の厨房丸だしのクソガキが馬鹿騒ぎやってるのは、 過去の自分が晒しものになっているようで見るに耐えない。マジでムカツク。 しまった!またしても愚行の数々が思い出されて来たぞ! あああああ! うわあああああああ! 許してくれ! うぎゃああああ!

こういう映画を「はっはっは。俺も若かった脳」などと余裕ぶっこいて 観れるようになるのは、いったいいつの事だろうか。

ABC

青山ブックセンタ復活おめでとうございます

日曜

妻の祖母の法事で久々に横浜の妻の実家に行く。

猫が居るのだが、ひとみしりで庭に逃げ出したきり戻って来ない。

坊さんが帰ったあと、横浜で食事をいただく。 たいへんおいしゅうございました。ごちそうさまでした。 キヨウケン。

それから自由が丘でユキリン松浦さんの鎖骨くっついたパーティー!

肩関節がすっかり固まっており、うまく動かず、非常に難儀しておられました。 俺も年に一回くらい骨折ってますが、 手術したりギプスで固めた事はいままで無いわけです。 ギプスはないのですが、右手小指を折った時は、 合成樹脂の添え木で固定しました。このときはひと月ほど経ったら、 全く曲がらなくなっており元どおり曲がるようになるまで 1週間くらいかかった。

いやはや、そんときのですね、曲がらないのをまがるようにするプロセスが 折れた時よりずっと大変だった。 すっげぇ痛くて、もう、こんな痛いんだったら、永遠に元に戻らないんじゃないか? と思う程痛かった。ような気がする。 しかも、ちゃんと動いて曲がってた記憶があるんで、 どんなに気合い入れても全然動かないのが、 非常にイラチきましてね、これまた痛いのと違う辛さがあったよ。 なんせ片手でリンゴ握りつぶすぜ!ってゆうくらい気合いこめても、 3mmくらいしか動かないんだぜ。

algorithm

アルゴリズムの語源は西暦9世紀のイスラームの学者の名 アル フワリズミ だそうだ。(かなり本当)

代数学の語源もそうだという説があるが、 なんとなく、等式の変形規則についたアラビア語の名称のようにも見える。

なにかアルゴリズムがあったとしましょう。 これを誰かに伝えようとすれば、 何かで表記せねばならない。 誰かってのは、天然知能(ようするに人間のことだ)でもいいし、 あるいはコンピュータかもしれない。なんでもいいんだ。

おそらくそこで、ハッカー諸氏は、 これを表現するのに何らかの言語を使うだろう。 アルゴリズムの内容によっては、普段使っている自然言語かもしれないし、 あるいは一番得意なプログラミング言語かもしれない。

さて、ここで問題が生じる。一体どの言語を使うべきか、ってことだ。

つまり、どの言語を使うかによって、少なくとも、表現を獲得するための手間は かなり異なる事が経験上明らかであるし、 また、得られた表現を読むのにかかる手間も同様である。 そういった作業は、できるだけ軽く、かつ、やっていて楽しいものが望ましい事は 言うまでもなかろう。

この問題はしばしば世間で話題にのぼる。 なぜならば、同じ仕事をするために、複数のやりかたがあるとき、 どれがもっともらくちんであり、のぞむべくはエレガントなのか、というのは、 実際の産業上からいっても直接的な重大問題だからである。 そしてしばしば新しい問題は新しい言語を生み出して来た。 これはなにも人工的な形式言語だけではない。 自然言語においても同様の事実はいくらでもある。 たとえば、X語を喋る集団とY語を喋る集団が島に流れついて、 これら二つの集団がお互いの意志疎通をはかる、という問題を解決するために、 X語とY語のごちゃまぜ語が発明されたりするのは普通にあることだ。

なんか脱線したな。つまり、言語とアルゴリズムには相性があるわけだが、 一方、この相性の問題を除外した場合、 実際のところは、どうなのよ? という問題も存在するわけです。

つまり、 こういうことです。 そりゃたしかに某関数は lisp 系言語で書けば5行かそこらで書けますが、 気合いと根性さえあれば、機械語でも書けるわけです (そうじゃなきゃ lisp も動かん)。 手間や難しさの問題を除外すれば、 いろんな言語の表現能力ってのは、ひょっとすると、けっこう同じなんじゃねぇの?

実際には、異なる場合があるのだ。 20世紀の前半に、これら言語の表現能力に関する基礎的な研究が 行われた。 その結果、非常に基本的な、幾つかの条件というか、表現能力が見出された。 そして、これらを備えておれば、それら言語の表現能力は、結局のところ、 同じになることが判った。 逆に言えば、知られている範囲では、 どんな難しい表現能力も、それら基本的な幾つかの条件を組み合わせて 作ることができた、ということだ。 そして当然ながら、これらの基礎的な能力において相違があるときは、 表現能力に差異が生じるのである。

しかしながら、「全てのアルゴリズムに関して表現能力が等しい」 であるとか、「考えうる全ての表現の表現能力は等しい」という事は、 ものごとの内容からしてかなり証明するのは困難である。 ちょっと控え目に言ってみたが、はっきり言って無理であろう。 ボルヘスの「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」に出て来る、 名詞の無いヘンテコな言語と、わしらの日本語が アルゴリズムの表現能力において同じかどうかなんて、判るわけねぇっす。

だが、カンとして。つまり単なるヤマカンとしてですがね。 結局どの言語を使っても、無限の気合いと根性さえあれば、 同じ仕事ができるのではないか、という予測は成り立つわけです。

これを「チャーチのテーゼ」といいます。この分野において、 数多くの本質的貢献をなしとげた、 Alonzo Church という人が言い出したので この名があります。 Structure and Interpretation of Computer Programs を読んだ人は、 序文にその名が出て来るので知っている人も居るでしょう。

なんだか完全言語の存在を完膚なきまでに否定し、 言語の根源的相対性を含意しているようにも見えるが、 一方で、 言語以前の、何か判らんが未だ表現を獲得していないモノの実在を信じたくなる、 そんなヤマカンですね。

おっと。落書が、なんだかガラにもなく格調高くなっちまったぜ。


過去の落書きリスト