いろいろな人間の能力のうち、 新しいものを創造する能力というのは、 人によってものすごい隔たりがある。
100Mを走る能力は、普通の人と世界のトップで倍も変わらない。 42kmを走る能力はだいぶ異なる。 10時間くらい歩けば42kmを移動することはできるので、 普通と世界のトップで5倍の差だ。
だが、創造する能力に関して言えば、 世界のトップとはいわず、身近なところですら5倍どころの差ではすまない。 なんでだろうか。
これはおそらく、「新しいもの」という定義に一つの原因がある。
とにかく、人より多く、深く考える事ができるかどうか。これが 新しいものを生み出すか否かのわかれめの一つだ。 「新しさ」が持つ、他の「新しくない」ものとの微妙な差は、 このへんに起因する。 つまり、そもそもひとよりそのあたりで優れていなければ、 新しいものなんか思い付く道理がないのだ。 だから、放っておけば創造に関しては、永遠に成果ゼロだ。 ゼロだから、一個でも思い付く奴が居たら、 差は5倍じゃ済まないというわけだ。
なんでこんなことを言い出したかというと、 むかし、家庭教師をやってた頃の事を思い出したからだ。
「センセイは、なんでこんな問題をこういう風に解けるんですか? 一体どうやって思い付くんですか?」 あるとき、俺の生徒がこう尋ねた。
「ごちゃごちゃうるせぇぞ。考えるな!感じるんだ!!」普通ならそう答えただろうが、 彼はそんな冴えた奴じゃなかったがとにかくマジメで俺の言った事を ちゃんと実行する奴だったので、 そういうデタラメな答えではなく、 ここらで一つ、じっくり考えてみるか、という気になった。
要するに、俺は彼よりも考えるのが速かった。圧倒的に速い。 だって、彼が手で紙に書いてるところが、全部暗算なんだもんよ。 暗算だから、その問題を知っているやり方で解決可能かどうか、 直ちに判る。 彼は手で計算してみないと判らない。 その部分で使う時間が圧倒的に短いので、余った時間で俺は 「どうすりゃカッコよく解けるかな。」と本当の意味で考える事ができる。 彼にはその暇がない。
俺は彼に mathematica でできそうな事は全て 暗算でできるように、特訓を施した。 俺は言った。「計算は全部暗算でやれ。答案で書く量を1/3にしろ」。 処理速度が3倍になるわけだ。その成果はいうまでもないだろう。
同じ事がテクノロジの分野においてもだいたい成り立つ。 あるアプローチでできること、できないこと、やるべきこと、やってもしょうがないこと、 これを他人より素早く正確に考える事ができない奴に、創造する権利などない。 テクノロジの分野では、基本的には、もっとも速い奴にだけ、創造する権利がある。
あらゆる意味において速度は正義であり、権力であり、真理であり、美である。
「速度教」でも作るか。聖典はアレだ。 P. Virillio の「速度と政治」だ。
なんだ。表紙変わってるな。
きのくにや漫画店にて
五十嵐大介は、未発表作一つを含む、読みきり短篇集。 奥付をみると、ずいぶんまえに出てたのな。 知らんかった。なんてこった。
今日は一週間分の食糧を買い込む。うっひっひ。 家に食い物が山盛りってのは素晴らしい事だ。
しかしながら、その新しいものがおもしろいかどうかは、また別だ。
というわけで、今日も仕事するぜ! 「未来世紀ブラジル」みながらな!
本多カツイチの山旅行本に クソしたあとの(おっと、食事中の方は失礼!)仕儀についての記述があり、 そのなかに水で洗うのが紙で拭くよりよほどエレガントなのではないか、 というような主張があったような気がする。
つまり、彼によると、紙ではいくら拭いても尻の穴についたクソは 漸近的にゼロに近付くだけで、無くなりはしないのだ。という事らしい。
それでは水ならゼロになるのかよ!という話しもあるのかないのか知らんが、 ヲシュレットというのはなんというか、未来的な発明だよな。 未来的ってのはつまり、 1970年代までくらいに夢想されていた未来のテクノロジ的だって意味だ。
だってクソしたあと、勝手に尻の穴を洗ってくれるんだぜ? そんな装置が実用化されてる時代が未来じゃなくて何だってんだよ?
しかし、このヲシュレットというのがなかなか微妙な装置なんですね。 だってそうじゃありませんこと? 尻の穴から水が
逆流
してくるんですもの。
え?俺だけ?