食いたいモノを食いたいだけ食え!(2005/01/29)


いろんなげんご

といっても自然言語ではなくプログラミング言語のことだ。

かつて bash しか解らなかった俺だが、いつのまにやら他にもイロイロと 解るようになった。

一番最近になっておぼえたのは、 ruby だ。これがちょうど一年ほどまえ。 この言語の俺にとっての最大の特長は、俺が「おぶじぇくとしこう」という 問題解決のアプローチをおぼえることができた点にある。 特に面白いと思ったのは「yield」です。これで好きなものに好きなように (というのは言いすぎか) each を作れるところが非常にイカスと思いました。

あと eval があるのもイイ。

ただ、まだ「親オブジェクトの子供オブジェクト」みたいなものを 書くほどには至っていない。 これが、俺がヘボなのかそれともこの問題解決アプローチの 適用範囲が本来こういうものなのか、というところは良く解らない。

俺が一番リラックスして落書的に書きはじめることができるのが LISP 系だ。 たとえば、なんかよくわかんね処理を明確なものにするという仕事を、 紙と手でなんとなくやってると、そのスケッチは LISP ぽい書き方になってしまう。 そのまま続ける事ができればどんなにらくちんだろう。

だが、いまいち処理系やライブラリについてマジメに探したりしてないせいで、 俺はLISP系では落書以上のものは書いてないのである。

Paul Graham 氏は LISP は最も高級な言語だと語っているが、 そこは俺にはいまいち解らない。 そんなたくさん知らんもので。 一つ言える事がある。 神がアルゴリズムを考える時は LISP をお使いになる。 だが神は死んだ。 話が逸れた。 この言語は「よく考えられた少数の要素で構成される エレガントなシステム」の名に相応しい。

ただ、ちょっと原理主義入ってる気もする。 俺みたいなロクデナシにはそこがたまらない。

ゼンマイふりこ時計

の存在意義など玩具以外にないと思っていたら こういう事があるそうだ

火星の自転周期は24時間39分なので、火星探査チームは難儀しておったそうな。 そこで、火星時間時計というのを地元の時計職人に作ってもらったそうな。

ディスプレイ

ノートパソコンのディスプレイが本格的にぶっこわれた。 分解してあちこち調べたが、結局治らなかった。

こまったのう。会社からでかい液晶ディスプレイを持って来て、 それで使うしかないか。

と思ったらなぜか自然治癒して今動いている。謎だ。

決戦とは

決戦用というかね。

つまり通勤チョイ乗り用じゃなくてですね、 軽くて硬くて速い自転車がもう一台あるわけです。 こいつに久々に乗ってみた。

鍛え直さねばならぬようじゃのう。ゲンナリ。

パズルランドのアリス

スマリヤンの本

スマリヤンの本は学校に居た頃、講義でよく使った。 私が講義する方でしたが。

この本は初めて読む。面白い。

ベルの「数学は科学の(以下略」は途中で飽きた。 自分にとって、数学は、 たとえどんなにショボくとも、自分で計算してこそ面白いものだということを 思い出した。 そこが俺の強力な点でもあり、また、弱点でもあった。

科学的

単に「正しい」という代わりに「科学的」とか 「論理的」という言い方が選ばれるようになったのは、 いつからで、どのようないきさつによるのであろうか。

科学的という語の意味するところは、 科学の方法論に則って得られた知的成果である、というほどの意味であろうか。 科学の方法論とは、事実に立脚して仮定を考え、 それを元に論理と数学を用いて推論し、 得られた結論を事実に立脚して検証する、 というプロセスを指すのであろう。

残念ながら、この、「事実に立脚」というところが 全然おはなしにならぬ奴は、今も昔も多い。 やってみりゃすぐ判る事を、「あーでもねぇ。こうでもねぇ。 理論的に考えればどうのこうの(以下256行屁理屈) 故にそんなことやっても意味はねぇ」と やってるもんだから、いつまでたっても結論が出ない。

また、論理と数学を用いて推論すべきところを 電波と勘を用いてこじつけてる場合も多い。

最後の検証に至っては、そこまでの道のりがこの有り様であるから、 この段階に至って一体何が行われるかは、 もはや悪魔だけが知っているというわけだ。

それはいい。

だが、「論理的」という言葉が正しいという意味において 用いられるのだけは、やめてほしいね。かつて論理の専門家だった者として。

つまり、論理的というのは、 定められた規則に従って形式的に到達可能ということであって、 その内容は問わないのである。間違った仮定から間違った結論を 論理的に演繹すること自体は論理的な態度である。 その結果、矛盾が生じたとしても、それは論理的な態度の結果である。 当然だな。 矛盾それ自体は、普通に論理において定義されている概念である。 従って、その存在をもって非論理的という評価を下すのは非論理的である。

論理と内容は関係がないという態度こそ、19世紀末から20世紀初頭にかけて、 数多くの偉大な天才達が膨大な労力を傾けて行った研究の結果として 得られた重大な知恵の一つなのである。 論理的であることを、真偽の概念と混同することは、 論理と数学の研究において達成されたこの偉大な業績を否定する事にほかならない。

論理的であることそれ自体は、なにがしかの内容を保証するものではない、 ということが解りにくければ、次の例を考えてみると良い。

すなわち、一切のバグがなく、完璧に動作することは、 そのプログラムが有益なものである事を保証しない。

そんな風に考えていた時期が俺にもありました

湧き水

仕事が一段落したんで、自転車に乗って深大寺行って、 昼に蕎麦食った。

野川公園の中に凄い湧き水がある。

えらい勢いでじゃんじゃん湧いててちょっと驚いた。 もう、そこからいきなり川になってるんですよ。

野川はいいね。丸っこいモコモコした水鳥が並んでて。楽しいよ。

今日は食いたいものを食いたいだけ食った。


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