脳のなかの アレ


ナントカ 2000 というのが大流行ですか? 何でも 2000 を付けるという風習は, 誰が元祖なのだろうか. 「ま」の付く会社ではないような気もするが, こういうイメージ戦略的なところだけは, 先進の気風が感じられるのも 事実なので, ひょっとするとシアトル発なのかもしれないな. しかし, 個人的にいえば 2000 といったら 2000年よりも 2000cc であり, すなわちトヨタ 2000GT か スカイライン 2000GTR という感じなので, 最近のプログラム製品に「ほげ 2000」という名前が付いているのは, やや馴染めない. だってまるきり弱そうじゃないですか.

先週は w2k すなわち「ゐんどうづ 2千」の発売だったらしい. ものすごい宣伝攻勢であり, PR イベント関連以外にも, 雑誌や ニュースサイト掲載のチョウチン記事なども凄まじい勢いである. その一方で, 一般ユーザのデスクトップも全部 NT カーネルにする, と鼻息荒かったのが, 発売後はそれを打ち消すのに必死らしい. まあ, 発売前から「買うなよ」というわけにも行かないのだろうが, それにしてもひでえ話だよな. 散々あおってから, 今更「企業向けです. 一般ユーザは手を出さないで下さい」だもんね. そりゃねえよ.

PR イベントでは相変わらず「この OS は UNIX の息の根を止める」と 吠えているらしい. 言ってる本人が信じているとは到底思えないのだが, こういう幼稚な虚栄は, ほんとうにダサいね. 「俺はスキー バリバリっすよ」とか言ってて, 雪の上に出てみたら全然クソ, そのうえ「今日は足が痛くて」みたいな 言い訳してるのと同じで, 最低じゃないですか. それにしても, よっぽど Mac OS と UNIX に僻みがあるんだね. MS-DOS のトラウマをもっとも深刻にひきずっているのが, 実は売った本人であるこの会社なんだよな. そう考えると, なんだか哀れを催さぬでもない.

「脳のなかの幽霊」について

クソだと判り切っている奴のことを悪口書いてもしょうがない. ネットワーク帯域も有限なので, もっと楽しい話題にしよう. 去年の 8月に買った, ラマチャンドラン(Ramachandran, V. S.)の 「脳のなかの幽霊」(Phantoms in the Brain)についてだ. 非常に面白い, 素晴らしい本である. それにもかかわらず今まで黙っていたのは, まとまった意見を持つことができないでいるからだ. こうして書き始めているが, 実際には, 今なお何か筋の通った意見ないし批評をできる状態ではないのである.

この本と少し似ているが, その精度とインパクトにおいて遥かに(残念ながら) 劣る業績が, 養老タカシによってなされている. 彼の著書「唯脳論」についての書評を大学の学生新聞に書いたことがある. 新進の気風自体はどうかしらないが, 常に事実に立脚して推論を積み重ねて行くという態度の強さにおいて, 残念ながら養老タカシは決定的に劣っている. これは, ラマチャンドランが今も現役の科学者であるのに対し, 養老が評論家でしかない, というのと無関係ではあるまい. もっとも, 唯脳論はもう 10年以上まえの本であり, この分野はそれ以後 ものすごい進歩が達成されているので, そのインパクトを単純に比較すること自体には あまり意味が無いんだけどね.

自分が「脳のなかの幽霊」についてまとまった意見を作ることが出来ない でいるのは, 養老タカシの無力と無関係ではない. なんといっても, この本の中でもっとも魅力的なのは, 有無を言わせぬ事実の力. 適切な実験によって示される, 単純だが疑いをさし挟む余地の無い事実の 重さなのである.

「言うだけだったらタダ」というのは俺の口ぐせだが, まったくもって, この本にでてくるような実験が自分にできない, という 事程, 無力に感じられることは無い. この本で扱われるテーマについて論じる資格があるのは, 同じような実験を実際にやったことのある奴だけだ. プログラムを書かない奴にコンピュータを論じる資格は無く, 計算をしない奴に数学を論じる資格が無いのと同じことである.

それを承知で, この本の中から, 幾つか自分なりに気に入ったところを紹介しよう.

クリエイティブな天才はなんで存在するのか? てな問題がある. 「なんで」というのは「なぜ」と「どのようにして」の両方だ. 「なぜ」は根源的で, どういう答えを用意すべきか不定である場合も多い ので, 誰もが興味を抱く(あるいは抑圧する?)とはかぎらないが, 「どのようにして」は誰しも興味をもつ問題であろう.

脳は, まるで「マザーボード」のように, 部分によってわりかしきっちり と役割を持っていることが最近判っている. この部分は VRAM, この部分はキャッシュ. ここはドライブをコントロール し, ここはバッファ. みたいな感じだ. 驚くべき事に(俺にはすくなくともそう思われた), なんと, 「視覚関連の 意味論モジュール」や「関連運動生成モジュール」が存在し, これが事故なんかで損なわれると, 特定の作業ができなくなったりするの だ.

このモジュールは, 場合によっては固定的な役割を割り当てられているが, 「プログラマブル」な場合もある. 脳内出血で言語モジュールがぶっこわ れても, しばらくするとまた喋れるようになる場合もけっこう多いという のが, これにあたる. 固定的なのは, 脳の中心方面. 歴史的に見て昔にできたノウミソの部分で ある.

画を描くのに必要な能力の一つは, (思い通りに動く繊細な手を除けば) 描きたいものを明瞭にイメージするこ とである. これが不明瞭なまま作品を作り始めても, ロクなものはできない.

やる前からできあがるものが判り切っている, というのが, 天才の特徴のひとつだ. 天才は全ての可能性を総当たりでチェックしたりはしない. 迷路を見た瞬間に, 正しい道が認識されるのである. 知能指数が 50くらいなのだが, ダヴィンチ(むしろ, ミケランジェロかな) のデッサンと見紛う画を描く子供がいる. 俺には判るが, 彼等は描く前に, 白い紙の上に描くべきものがありありと, 疑いもなく明瞭に生き生きと見えているはずだ. この能力は, どうも「脳のなかの幽霊」によれば それ用のハードウェアが存在しているようにも取れる.

もっとも, なんでもそうだが, 訓練すれば才能に応じて能力は増大する. 最初からうまい奴もいるが, 同じくらいうまい奴なら, 練習する方がうまくなる. 当然である. ものの形態や動きを憶え, 再生する能力は, 訓練によって強化することが できる. 以下はダ ヴィンチ の手記から

眼がさめたとき, あるいは眠りにつくまえに床の中の暗闇で研究すること について -- 暗闇の床の中にいるとき, 以前に研究した形態の表面の線とかその他微妙 な観照によって把握された注目すべき物を想像の中で反復してみることは 少なからず役に立つものであることを私自身体験した. そしてこれはたしかに称賛すべく, かつ物を記憶の中に牢固たらしめるの に有益な行為である.

他にも, 彼は何度も繰り返して「憶えてから描け」と言っている. これが形ってのはなかなかどうして憶えられるもんじゃないんですね. そして, どうやらこの能力を担っている「ハードウェア」があるらしい. いろんなコンピュータの中には SGI のある種のマシンのようにグラフィク スに特化したハードウェアを持つ設計の製品があるように, 人間にもそういう強力な VRAM とグラフィックエンジンを持った個体が 居るということらしい. 私見では, 料理にもそいういう才能が存在する. 才能ある料理人には, 作る前から作るべき物が(俺が言いたいのは, 新しいメニューを考えるとき に, って事だぜ) , というか喰いたいものが, 明瞭に判っているはずだ. ご家庭の奥様がスーパーの特売をみてから作るものを決めるのとは, 全く違ったプロセスである. 料理モジュールは, また違ったハードウェアであろう.

まあ, いずれにせよ, そいういう「ダ ヴィンチ モジュール」が存在して いるらしいので, 確かな事はまだ判らんらしいが, そういうことにして 話を続けよう. どうせラクガキだしね.

各モジュールは, 幾分, 抽象度に応じて レイヤを構成しているようにも見える. 視覚に関する章では, 目玉からの入力を予め必要に応じて成形してから 抽象的な(あるいは意識にのぼるような) 処理を行う部分に伝達されているというような事が書かれてある. 著者には, 脳味噌が計算機と如何に違っているか, みたいなことを言いたい 部分もあるようだが, 俺にとってみれば, 意外に良く似た構造であるなあ, という印象をうける. 計算機がノーミソのある部分でやっているめんどくさい仕事を やるために作られたものであることを考えれば, いろんなレベルで両者に似ているところがあるのは当然といえばそうなの だが. もっとも, 両者には根本的に違うところも多い. 脳味噌の最大の特徴は, 猛烈な並列処理であると言われている. そのへんは, おれにはよくわからんが, 同じ操作を実装するにしても, 色んなやり方があり, それぞれ得手不得手があるのは当り前といえばそう なんで, 人間のできることを全部計算機が出来なくても, それで計算機が アホだということにはなるまい. 同じ走ることでも足と車輪の違いということもあるしね. 車輪は平坦なところなら足よりもずっと効率がいいが, 山道は走れない.

グラフィック エンジン とか, 専用のハードウェアがあったとしても, それだけでは独創的な業績には不十分じゃないのか? と思うでしょう. それは全くそのとおりでして, 自閉症の絵画の達人は, 成長して「最後の審判」や「プリマヴェラ」 を描くようになるかというと, そんなことはないわけですな. 何故か? 再びダ ヴィンチの手記から引用しよう.

君が遠近法を十分に学び終って, 対象のあらゆる局部や形態を 暗記した場合には, 散歩に出る途々, 談話したり, 口論したり, わらったり, 喧嘩したりしている人びとの態度振舞, つまり 当事者がどんな動作をする か, その事件の取り巻き, 引き分け手, あるいは見物人がどんな動作をする か, よくながめて観察しなくてはならない.

人物, 風景, 自然の形態とその意味を正確に憶えることが, 必要とされている. 簡単にいえば,画家は全能でなければならない. 確かに, グラフィックをサポートするハードウェアがノウミソにあるらし いが, その機能は限定的で, 万能の画家に値するものではないということ が, 自閉症の達人という存在から判る. もっといえば, それら画を構成する要素を沢山持っているだけでは十分で はない. アルファベットを全部しっていることがシェイクスピアの戯曲を 書く十分条件でないのと同じことだ.

ここに至って, またしても天才の想像/創造力に問題は帰って来た. ノウミソの中にグラフィック関連の特殊な機能を実装した部分があるとしよう. それを活用し, 何を描くか決めているのはどれなんだ? パルミジァニーノに「凸面鏡の自画像」を描こうと思い付かせた 「マニエリスム モジュール」があるのか? いかにも無さそうだよな. でも, 「ダダ モジュール」はいかにもありそうな気がするのは俺だけか? それはいいや. まあとにかく, これで画の天才の実体に一歩迫ったことは事実である. 彼等は, わしらには手の届かない高性能なグラフィック関連の ハードウェアを搭載していたのである. これが天才の必要条件であることは間違い無い.

もっとも, 創造性に対する回答は, それとなく本書に存在する. 革新的なことを思い付く時に活発に活動する脳味噌の部分というのが 確かに存在するのだ. これから先は, 読んでのお楽しみである. それから, これもこの本の持つ衝撃の一つとして挙げられると思うが, ノウミソなんか, 大してめんどくさいことをしているわけじゃない, というのが, なんつうか, ある意味納得できて楽しい. 人間, そんな大層な生物のわけがない. 「精神の座」とか「脳死」とか言ってるが, 実は意外と笑っちゃうくらい単純なツクリになっているらしいことが伺える. 本書の中にでてくる実験の幾つかは, きっと自分の脳でやってみたくなることであろう. 意外と簡単に脳味噌がやっている処理を デバッガで覗くみたいにして見れるぞ. もっとも, デバグシンボルを埋め込む操作(これが著者の業績) は, なかなか出来ることではないのだが.
ISBN4-04-791320-0 2100円