何でもかんでもステンレス


ステンレスという材料は, いつ, 開発されたもんなのかのう. 鉄は錆びるという弱点があるが, これを克服し, 強度も高い, ナイスな材料がステンレス鋼だ.

なかでも, 440系のマルテンサイトステンレスは, 焼き入れできるステンレスとして, 重宝されている. 噂では, アポロ計画のためだか頃だかに開発されたというが, そのへんの真偽をたしかめてないのでよくわかんないのだけれど, ケネディが 1960年ころの宇宙計画の演説 (`We choose to go to the moon' とい うアレ)で言及する,

Gigantic rocket of three hundreds feet tall, made of new metal alloys, capable of standing several times of heat and pressure, some of which are not yet invented
(暗記につき, 間違ってたら御容赦を) というくだりででてくる新しい合金の一つであることにはかわり無い. マルテンサイト系ステンレスは, 耐熱性を持つベアリングや軸受けの材料として 開発された合金であり, ジェットエンジンの軸や軸受けなどに使われた. 当然, アポロ計画でも盛んに使われたことだろう.

マルテンサイトというのは, 鉄-炭素合金系(つまり鋼)の結晶状態の一つで, 相転移温度以上に加熱した状態から, 炭素の拡散速度以上のスピードで冷却した 時に出現する, (つまり熱平衡状態では出現しない)特殊な相だ. 焼き入れというのは, マルテンサイト相を作る操作である. 相転移温度を境に, 鉄の結晶格子の中で炭素が占める位置は変化するのだが, 十分な速度で冷却すれば, 常温で炭素が収まるべき位置に炭素原子が収まることがで きなくて, 鉄の結晶構造だけが変化し, その結果 鉄-炭素合金系の結晶格子に 歪みができ, 組織に強い引っ張り強度や高い硬度を与えるのだ. これが, 焼きが 入った状態. 再び相転移温度以上に加熱し, ゆっくり冷却すれば, 炭素は然るべき位置に収まっ て, 鋼は軟らかくなる. これが焼きがナマされた状態. 焼き入れされた製品を火であぶったりすると, 焼きがナマってダメになってしま うのは, こういう理屈だ. 焼き入れの理屈からいって, 一旦焼きがナマっても, もう一回焼き入れすれば, 復活するわけだが, 製品の形状や作りから, なかなかそうもいかない場合もある.

クロムは, 鉄に添加されると, 炭素が引っ越すのを邪魔する働きがある. マルテンサイト組織が, どれくらいの温度まで変性せずに存続できるか, という性質を「焼き戻し軟化抵抗」という. 焼きのナマりにくさだ. マルテンサイト系ステンレスは, 耐蝕性を付与するためにクロムを15% 前後添加 してあるが, これが焼き戻し軟化抵抗にも寄与している. マルテンサイト系ステンレスが, 耐熱軸受けに使われるのは, こういうわけだ. 普通の焼き入れ鋼は 200度前後で焼きがナマりはじめるが, マルテンサイト系ステンレスは 400度前後までがんばることができる.

マルテンサイト系ステンレスでよくみかけるのは, 440一族だ. ハイカーボンステンレスと呼ばれているのは, たいていこの仲間だ. そして, ステンレス刃物に使われているのも, たいていこれだ.

たしかに, 440一族は, 焼き入れできる鋼ではある. そして, 焼き入れされた状態で, 硬度を測定すると, 確かに刃物に使われる材料 とおなじくらいの硬さが得られている. また, 在来の刃物用鋼とちがい, なかなか錆びない. だから, 刃物に使ってみようという気になるのは悪くない.

しかし, マルテンサイト系ステンレスは, 刃物には向かないようだ. 全然切れないし, 研ぐのが大変だし, 研いでもすぐ切れなくなるし, 全くロクでもない. ステンレスの包丁もナイフも, 全くもって, 「ケ」だ.

刃物に要求される性質は, 硬さだけではないのだ. 結晶のツブが小さく, また, 大きさが揃っていること. それに, ツブとツブがしっかりくっついていることが重要なのだ. これにかんして, 440一族は, 全然まるきりロクでもないのである. ツブはでかいし(肉眼で見える程だ), すぐポロリといっちまう. だから, ちょっと硬い材料(木材とか)を切ると, すぐ切れなくなってしまう.

しかし, 440一族以外の鋼を使ったことが無ければ, そんなことがわかるわけも ないわけで, かくしてステンレスは今日も隆盛を誇っているわけだ. 材料には得手不得手があるわけで, もともとベアリング用に作られた材料が, そ のまま刃物に転用できるわけがないのだが, そんなことは考えたこともないのか なあ.

刃物用の特殊鋼では, もっと昔からある高速度鋼というのが, 実は最高に具合が 良い. ただ, この鋼は値段がステンレス鋼の倍以上するし, 熱処理も段取りや手 間がだいぶかかるから, 製造コストは高い. それにもかかわらず, 今も鉄工ドリ ルやノコギリにこの鋼が使われているのは, つまり工具の寿命を考えると, 結局 この鋼の方が安いからだ. 実際, 高速度鋼の刃物を使うと, もう, ステンレスは見るのもイヤになる. なんせ, 高速度鋼の刃物は, ステンレスの包丁やナイフが削れるのだ. それでいて, ちゃんと熱処理すれば折れたり刃こぼれなんか絶対しないわけだし. これは, UNIX に慣れると, 他のシステムは見るのもイヤになるのとちょっと似ている.

マルテンサイト系ステンレスも, 最近は製造法がだいぶ改良されて, 刃物に使っても良く切れるものがつくられるようになったと聞くが, それにしても粉末冶金で作った材料はどれもびっくりするくらい高い. 在来製法の高速度鋼の倍くらいするからなあ. しかし, どう考えても高速度鋼の倍の性能は無いからのう. そんな性能があったら, コストに敏感なところでは, 切削工具に全部そういう材料を使うはずじゃからな. 要するに, いくらアポロ計画出身のステンレスでも万能ではない. 相応しいところに使わないとダメだって事さ.

しかし, ロクな包丁がないなあ. 作るしかないのか?高速度鋼で.