「素数の音楽」にでてきた、ある数学者の勤務日誌
月曜 定理の証明
火曜 定理の証明
水曜 定理の証明
木曜 定理の証明
金曜 定理に反例が見付かった
この、定理の証明中に 「反例発見→全てが崩壊」 という非常にありがちな展開。 これ。 この障壁とリスクこそが数学を崇高なものとしているのは、 一面の真理ではあると思いますが、 ぶっちゃけ馬鹿フィルターでもあるわけです。 そして残念ながら私の場合は、「お。これで証明できた→次のステップへ」 というキレイな展開には、めぐりあえずにキャリアが終ってしまいました。 つまりフィルタにひっかかっちゃったわけですね。 ガックシ
まぁそういうけどね、まだ証明ついてない定理の証明考えるのって、 まじで大変なんすよ。 どんくらい大変かというのを説明しましょう。
とにかく散々粘ってあの手この手を考えてもうまくいかないから、 証明を始めた時は、どう見ても成り立つように見えた命題が、 そのうち徐々に、疑わしいものに見えてきて、 しまいには成り立つワケない、という印象に変わってきて 反例を探し始めちゃうんですよ。 もう、そもそも何やってたんだか。ってなもんです。 ところが反例なんて簡単に見付かるわけないんですよ。 そんなもん簡単に見付かるくらいなら、 最初からその命題の証明に挑んだりしないっすから。 ヤバそうなもの、どれを持ってきても成り立つわけですね、 だいたい読めると思いますが、つまり、 そんな事やってるうちに、また絶対に成り立つような気がしてきて、 証明再開。これにてロシアにあるという「穴掘って埋める式拷問」にも似た 必殺無限ループの完成ってわけです。 どうすか?なんとなく解ってもらえましたでしょうか?
いや、なんでこんな話しになるかというとですね、 こんな馬鹿ループは俺みたいなヘナチョコだけだと思ってたんですよ。 研究やってたときは。 そしたら、「素数の音楽」みてると、 リーマン予想の証明に挑んだ、 もう、俺をショボいモヒカンのザコとすればラオウかケンシロウか、ぐらいの奴が、 ちっとも証明がうまくいかないんで、 「これ成り立たないっしょ。無理。そのうち反例みつかるって」 みたいな泣き入れてるんですよ。 わはは、俺とおんなじかよ!みたいに なんかすげぇ慰められたというか。 む。 下世話ですまぬ。
そうそう。あと、数学って自転車レースと同じで、一着以外は負けです。 二着の表彰台が存在する場合もありますが、例外的で、 最初に思い付いた、証明つけた奴に全ての名誉が帰属します。 だってそりゃそうでしょ。 たとえ具体的な手順が明らかになっていなくとも、 「証明できる」と判った上で証明するんなら、 そりゃ楽ですよ。 このあたりの事情をよく知る私のかつての指導教官は、 しばしば「以下が成り立つならば証明せよ。そうでないなら反例を示せ(ニヤニヤ)。」 という構成の課題を出したものです。
バーゼルの展示会が終って、今年の新製品も出そろったわけです。
今日びのメカ時計は普通の時計(電池で水晶発振子を使って調速するやつ)とは 全然違う存在意義があって、 機械の目的が時刻を表示したり時間を測定するという本来のものからずれていて、 ゼンマイ、歯車、カム、レバーで動くという事自体に価値があるとされている。 それが証拠には、裏蓋が透明なのは当り前で、 甚だしいものでは、 文字盤が無くて正面からメカが丸見えだったり、 わざわざ文字盤に穴があけてあってそこから機械部分が見えてたりする。
それ自体はおもしろいというか、 私も含めたメカ萌えな人にはそれでオッケーなのですが、 しかし、これがあまり前面に出てくるとおかしなことになる。 もう、どこに何が表示されてて、今何時何分なのかすら、 説明を聞かないと皆目判らないものもでてくる始末。 いくらなんでもやりすぎでしょう。 いわゆる一つの本末転倒というやつでしょうか。
しかし、私が子どもの頃のメカ時計といえば、 一日に何分とか狂うのは当り前だったので、 私が今使ってるのみたいに、 月末に日付合わす時に誤差が一分以内に収まってるなんて、 その頃の常識からするとありえない。 これなら普通の電池式と変わらない使い勝手というか、 普通に実用品として問題無いレベルを達成しています。 ゼンマイ、歯車、カム、レバーで動いてるくせに、 凄いですよね。 だから、このあたりはすげぇな、と純粋にリスペクツ。
削り出し原理主義に関する記述は、 パノフスキの「イコノロジー研究」にある、 と中山氏よりメールによる教授あり。 ちくま文庫版では下巻の P83末尾及びそのあたりの註430並びに431に 明示的な記述がある。 私が読んだのも、まさにこの記述だった。
これだけを見ると、 なんかおっかない原理主義者という印象だが、 ヴァザーリも併読すると事情はもう少し違った角度を持ってくる。 粘土をコネて作るのはスケッチや模型であって本番は削り出しでこそ作るべし、 ということでもあったようだ。 というのも、かくいうミケランジェロも 模型は蝋や粘土で作っているのである。 つまりこれは、製作手法に関するイデオロギーというだけではなく、 「偉大な建築家は足場を残さない」(ガウス) 「製作者の足跡は残してはならない。 作品が希薄な大気から誕生したように見えるべきだ。」(ダニエルズ) その他まだまだたくさんあると思われる、 「下書きは見せるものではない」という 職業人としての誇りに根ざすものでもあるように私には思われます。
まぁ原則的には削り出してこそ漢ということでしょうがね。 つまり、簡単にできるものにはあまり価値が無いっていうか。
「素数の音楽」読了
非常におもしろい。
私がこういうこと言うのもアレかもですけど、 まぁぶっちゃけ数学者、 なかでも数論やってるなんて究めつけの変人揃いだから、 ネタに恵まれているというのもあるかもしれませんが、 この本の何がおもしろいかといって、未解決の問題で読ませるところが 良いところではないでしょうか。
誇り高い職業人として、 きちんときれいに出来上がったものだけを見せたいという欲求は、 やはり数学者にもあるわけで、 読む方もそういうスッキリしたものを期待するから、 この手の本はどうしても証明された問題や達成された計算についてのものに なりがちだ。 そうなれば本の構成も ハッピーエンドに向けて収束していくような、 結末が判っているからこそとれるつくりになる。
成功の秘訣は未解決の問題を選んだところにある。 それに向かって、人類最高とされる数々の英知が波状攻撃をかけては 打ち破られる様子。 それを見て、居並ぶ達人も腰が引けてしまうところ。 たびたび進退窮まったところで毎度現れる別の側面からの思わぬ援軍。 これらが本書の主題です。 問題が解決しちゃったら一切用事がなくなってしまうような、 つまり、建物が完成したら全て取り外されてしまう様々な足場がテーマ。
悪くすればそんなテーマは楽屋オチだ。 専門家だって本当はそんなもの見たくないくらいのもので、 いわんや一般人をや、である。 それをおもしろく見せる事に成功しているのは、二つの要因があると思う。 一つは、数学自体よりも、それをやってる人間の描写に、 重点が置かれているところ。 もう一つは、リーマン予想をめぐる、その困難さと有効性を、 最小限の数学と詩的な表現により、技術的な応用を絡めて うまく描写したところにある。
だから、文化祭前の徹夜のような、 楽しさとしんどさが共存する奇妙な高揚感を、 無理なく民間人にも味わうことができる。
素数の叙事詩。