銀塩写真の未来(2006/04/20)


へび

蛇が好きでした。今もけっこう好き。

脚が無いのに進むところが偉大で尊敬していた。 これは、そういうハンデをものともしない、というしょうもない意味ではなく、 脚というありがちなアプローチを棄却し代わって謎の推進メカニズムを採用することで、 あらゆる地形を己が移動するための曲面として抽象化するという偉業を達成したところに リスペクツという意味である。

なんせ木も砂も礫地もアスファルトも水も、 狭いすきまも思いのままで、しかも全てを同じやり方で移動可能。

しかもその仕組みがいまいち謎ってところが魅力的。 というか、わしはいまだに、蛇がどうやって前に移動するのか解らんのですよ。 どうもまるっきりツルツルのところは前進できないらしいから、 少なくとも腹のウロコが後ろ向いて生えてるところに鍵があるらしいのだが。 にゅるにゅるとS字を描いていくところがカギなのか? とにかくあれはすごいです。 よくあんなスピードでるよね。

そんな蛇も弱点があって、寒くなるとダメなんですね。冬眠しなきゃ。 これはべつにかならずしも弱点じゃなくて、月に一度しか食わなくていいという、 燃費のよさの源でもあるのですが。 昔、食事が苦痛だった頃は、それがまことに羨ましかったものです。

ちょっと油断するとすぐ腹がへってキゼツしてしまう、 今の俺様はこれに対してほぼ鳥類的体質。

銀塩写真の未来

モーターサイクルができても自転車はなくならない。

だが、クルマができたら馬車はなくなった。

写真ができたからといって、絵画がなくなるわけではなかった。

しかし、電卓ができたら手回し計算機はなくなった。

これらの関係が意味するところは何か? また、銀塩写真はどうなるのだろうか?

なくならなかったものには、代替物では 肩代りできない何かがあった。 たとえば自転車は漕がなきゃいけないが、じつは、それは必ずしも欠点ではない。 運動不足のひとにはちょうど良い刺激だし、 ガソリンも電気も要らない事が、単純さと頑健さにつながっている。 つまり、こう考える事もできる。 もし、今の内燃機関を使うモーターサイクルのまえに、 蒸気機関を使ったスチームロコモーティブサイクルなるものが存在していたとしたら、 それは内燃機関のものに完全にとってかわられて絶滅しただろう。

なくなってみてはじめて隠れた価値が判った、 というような展開でも構わない。 この場合は、一旦絶滅するかに見えても復活して来るだろう。

さて、銀塩写真の場合はどうだろうか?

現像、やきつけといったプロセスが完全にユーザの見えないところに存在し、 ユーザが感光材料と関わりになる事が全く無いというタイプの、 銀塩写真のありかたは遠からず絶滅せざるを得まい。 そこには銀塩でなくてはならない理由、 つまり人間が現像焼付けをやる動機が全く無いからだ。 感光材料と人間の関わりに何か積極的な価値が与えられるような形でのみ、 銀塩写真の存続は可能だろう。

現在も「オリジナルプリント」などと称して焼付けに特別な価値を付与する動きがあるが、 これが一つのヒントたりえるのではないだろうか。 つまり、アナログなので、複製を作る上で限界がある。 撮影だけでなく、現像や焼付けなどのプロセスに人間が積極的に関わったものとして、 いわゆる一品もの的なあり方にシフトしていくのかもしれない。

この場合、必要な装置や手間から考えると、 銅版画やシルクスクリーンくらいのマジョリティは、最終的に確保できるだろう。

つまり、ヘルムート ニュートンの撮ったヌードのオリジナルプリントなどが、 既にフェチな価値を持ったものとして見えている私が既にここに居るわけだが。

鳥の観察

巣を作ったりに忙しい季節なので、 ツバメみたいに判りやすいもの以外でも、 巣づくりの活動を見られることがある。

先日は、シジュウカラの巣づくりをみた。 地面からコケをひっぺがして、これを木の穴に運び込んでいた。 重心を低くして、 全体重をかけておもいっきりひっぱってコケをむしりとる様子が非常におもしろかった。

近所のスーパーには裏の搬入口に今年もツバメがやってきた。

ホアン ミロ

今日(2006/04/20)誕生日なんだってさ。

判っている範囲で、これまでにgoogle に出て来た画描き

クレーとかありそうだけどな。 あと、画描きじゃないけどバクミンスター フラー絡みで何かありそうだけどな。


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