あい変わらずバグり仕掛けの明け暮れ(2006/05/09)


2006/05/08

連休終って仕事。

昨日、自転車につけるLEDライトのゴムひもが伸びちゃって具合悪くなってたのを、 ダメになった冬山オーバー手袋に付いてたゴムひもをはずして、 こっちに移植して直した。

私が使っているライトは cateye のボタン型してる、 どこにでもつくアレです。 後ろはヘルメットに付けると具合が良いというはなしですが、 どうも後ろから見た時にどの角度が具合が良いのか、いまいち掴めないので、 私はシートピラーに付ける場合が多いですね。 前は、kalavinkaの場合はブレーキケーブル、 makinoのときはシフタケーブルに、 どちらもぶらさげるような感じで取り付けています。 ハンドルバーでは走行時の衝撃で下を向いてしまうので。

このライトはミニマルで良いのですが、 電池がすぐに切れるのが痛いところですな。 2032を2発は高いよ。

このシジュウカラの観察記録は非常におもしろく、素晴らしい。

峠の下りと私

Gerolsteinerというチームにシューマッハという選手がいて、 今Giro d'Italiaというレースに出てるんだけど、 F1の選手と血縁関係は全く無いとのこと。

だからなんだって感じだが。

Savoldelliがいきなり初日のTTで勝ったな。 いきなり調子良いのかね。 まぁあれだけのコースで、しかも他にもこの試合に照準つけてる剛脚の敵手が多数いる中で かなりずばぬけたタイムで勝ったんだから、調子悪いわけがないのですが。 私とは全く次元が違うわけですが、 登りがそこそこ走れるのに加えて下りに決定的ともいえる破壊力をもつというところで、 私はこの選手に勝手に親近感を抱いています。

昔、2ちゃんねるの自転車板にあった「ペダルがハスってどうこう」みたいなスレに 書いた事がありますが、 実は私なりに下りの技術をけっこう研究しています。 つまり、何も考えずにセンスと度胸だけで下っているわけではありません。

なかでも、近年の選手で研究するに値するのがSavoldelliというわけですが、 身近にそういう事を考えさせてくれる人が居たのも事実です。 たとえば、ホビーレーサーで下りといえばダンホ氏ですが、 あるレースで彼と一緒に走った修善寺右周りのラインどりは非常に勉強になりました。 また、吉池カントクも無駄の無い非常にエレガントなコースどりと ブレーキングテクニックを持っています。 そんな出会いがあって、私も 「頭を使って速く安全に走るぞ」と確信するに至ったというわけです。

下りというとセンスと技術と度胸とがほとんど全てですが、 機材ではタイヤが唯一重要な要素です。 他に、フォークだ車輪だいろいろ言う人は居ますが、 一般的な普通のものを使っていれば、 本質的な差は無いというのが私の持論です。 もちろん、壊れるとかそういうのは論外ですが。

論理と情動

2項対立として語られる事も多いこの二つの心的現象だが、 そういう考え方は間違っているというか、 現実に即していない、 もしくはピンとこないと最近思うのですよ。

論理が心的現象であるか否か、 つまり、人の心を離れて独立に論理というものが存在するか、 という問題はさて置くことにしたい。 つまり、全てのものごとについて、 そのものごとは、かくあるか否か、どちらかである、 などの論理的な事実は人間が居ても居なくても成り立つものであるとか、 そもそも人間が居なきゃそんな法則もへったくれもないから、 論理は人間の脳内にしか存在しないとか、 とかそういうような立場の事で、 ここではその類の問題は扱わない。

ここではそういった問題ではなく、人間が論理を使う、 つまり論理に従って物事を判断したり、行動したりする事と、 感情というか情動による判断ないしは行動を対比する、 という問題に限定して考察(というかラクガキ)を進めたい。 したがって、とりあえず論理は一つの心的現象であるという立場をとることにしよう。

論理に従って物事を判断したり、行動するというのは、 かなり抽象的な部類の行動で、 そのためには一定の訓練が必要であり、 また、必ずしも容易な事ではない。 これは経験から明らかな事であり、誰しもが認めるところではないだろうか。 だからこそ、論理に従った判断は尊重されもするのである。 では、そこでいう行動とは、またその行動を制御する「論理」とは、 何を抽象したものなのだろうか? 抽象的なものであるからには、抽象される以前の、 何かプリミティブな、 つまり、発展段階において原始的であるだけでなく、 システムの構成要素としても原始的でもある (二つめの「原始的」というのは、 フォーマルシステムにおけるプリミティブシンボル概念に類比する ものとして用いている) 存在は、何なのだろうか?

要するに、一体、論理は何を抽象してできるものか?

つまり、論理が依って立つ基盤は何か?

ここでいきなり結論というか、 私の独断的予想というか妄想を書いてしまいますが、 事実認識に関連づけられた情動が論理に先立つ原始的な心的現象であり、 これを抽象化したものが論理なのではないでしょうか? それ故に、論理を使うためには、 訓練とともに、 ある一定の事実認識に関連づけられる情動の蓄積(要するに経験ですね)が、 必要なのではないでしょうか?

非常に荒っぽい比喩をあえて使えば、 情動オペレーティングシステム上で動作している 一つのユーザプログラム(アプリケーション)が論理というわけです。 そして、このアプリケーションの動作には、 「Mind Hacks」によれば、どうやら言語ライブラリが必須なようです。

情動が下のレイヤなので、論理に無理な事だって情動なら可能ってわけですよ。 「理詰めの奴等の下を行け」ってわけですな。 つまりこの二つは別に対立項でもなんでもない。 ただ、情動なくして論理は無いが、逆は可能であり、 実際、そういう例は世界に溢れている。 更に情動と論理をめぐってしばしば現れる対立状況も、 この仮説はよく説明することができる。 つまりこれは、「テメー勝手に下のレイヤの資源を直叩きすんじゃねーよボケ」 「ルセーそっちこそ勝手な仕切り入れんじゃねーよボケ」 みたいな非常にありがちなやりとりです。

だから、わしら、両方あってあたりまえ。うまくリソースを配分していきたいものだ。

2006/05/09

こないだパンクしたので炭酸ガスボンベで修理して、 そのまま放置してたのだが 今日見たらだいぶ圧力が下がっていた。 そこで、チューブをぬいて穴を調べてから問題が無かったのでそのまま タイヤを戻して、こんどは空気をちゃんと入れ直した。

ところが微妙にチューブがタイヤからはみだしていたらしく、 自転車に車輪を装着した10秒後くらいに耳を切り裂く鋭い大音響とともに、 またしてもパンクしてしまった。 さすがに室内で7気圧でバーストするとこたえるぜ。 しばらく耳なりが消えなかった。

これにて携帯用予備チューブ一本を残すのみとなってしまったのである。 また買いだしに行かなきゃ。あーあ。 こういうのって、起きる時は続くよな。

それにしても、耳なりとは一体どういう現象なのであろうか? つまり、耳なりとは聴覚を実装する一連の感覚器及び神経系のシステムのうち、 どのあたりで何を原因として起きている症状なのであろうか?

そこで、ちょっと調べてみた。

耳なりって「キ---------------------ン」というアレだと思ってたら、 いろんな種類があって、 それぞれにありかたや対策が非常に違っており、 おかげで原因にも諸説があってはっきりしないようだ。

意外だったのは、他人にも聞こえる耳鳴りがあるという事実だ。 頭の周辺の血管や筋肉がおかしな状態になったか何かで、 変な音を出しているということらしい。 一瞬、「それは耳鳴りじゃねーだろ」と思ってしまったが、 そういうものがあるらしい。

「キーン」に最初に気づいたのは4歳くらいのときで、 その頃は持続的というか慢性的な耳鳴り持ちだった。 聴覚なんてそんなもんだと思っていたので、あまり気にもならなかった。 しかし、たまに「キーン」が止む事もあって、 あるとき、どうもこの音は自分の体内で鳴っているらしい、という事に気づいた。

多くの無線機は「スケルチ」という機能を持っていて、 これは目的とするタイプの、ある強さ以上の信号だけを出力するというような働きなのだが、 同様の機能は複数のレイヤで聴覚にも実装されていると思う。 私としては「キーン」は、 それのうちわりと感覚器に近い、つまり下の方のレイヤで実装されている 聴覚スケルチが不具合を起こしているような印象だ。 聴覚システム内部で発生するノイズを選択的に拾って中枢に送ってしまっている感じ。

なんだよ。俺って耳までバグってんのか? かんべんしてくれよ全く。

視覚にも似た現象が発生することがある。 テレビの放送終了砂の嵐状態みたいのが見えるアレだ。 昔、ある知合いが、あれを「ミノフスキー粒子」と呼んでいた。


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