先日拉致したテントウムシが、 しばらく行方不明だったのだが、 むちゃくちゃにふえてしまったアブラムシを退治してたら、 植木ばちの中に居た。
はっぱにとまらせたが、全然あぶらむしを食わないので、 もう腹いっぱいなのか、あるいは何か事情があるのだろう。 先日、同じ種類のが木の幹に卵を産み付けているのをみたので、 そういう事なのかも知れない。
アブラムシは俺が手で始末して、 てんとうむしは外に出した。 指の先にとまらせると、 羽を開いて「ぷ〜ん」ととんでいった。
それをみたら、 栗林彗の「昆虫の飛翔」をみたくなったので、 久しぶりに本だなからひっぱりだして、みる。
なんだ。この写真集、今じゃ入手不能なのか。 だからといって、他にこういうのが出てるかというと、 そうでもないらしいな。 最近研究書は出たようだが。
武蔵小金井駅の発車ベルが「さくら さくら」になって、 もうひと月くらいになる。
桜が散ったら元に戻るのかと思ったら、どうも永遠にこのままらしい。
こないだ、BSアニメ夜話という番組の「カリオストロ」の回をテキストとして収録した本を 書店でみかけて、 バレたら、なんか中山氏とかにシバかれそうだな、と思いつつ、 つい買ってしまった。
ついでに豆腐屋で木綿豆腐も購入。
そしたら、買物袋のなかで豆腐のパックが炸裂してますがな。 本がぐにょぐにょですがな。 ぐにょぐにょは、まあいいとしても、ページがひっついて見れなくなったら困りますから、 ドライヤーで干しました。 それから、読みました。
けっこう面白かったです。
面白かったのですが、ちょっと違うな、という印象も拭えない。
自分の作品の力で、世界をなんとかできる、いや、するのだ、せねばならない! という決意と、 徹底的な表現の追求は、 宮崎駿の場合、表裏一体の骨がらみなのではないでしょうか。 つまり、愉快なストーリーの一つ王道は力の無い立場の者が知恵と勇気で 状況をひっくり返すところにあるわけで、 端的に言えばそれは革命なわけです。 彼のように何事も徹底的に追求する人が、 このタイプのストーリーの本質についてのみ、 不問に付しておき、表現のみを追求する、 なんて事ができようはずもないのだが。
だいたい、そこんところを不問にしたままで、 創作のモチベーションを維持するなんてありえない話。
フルエさんに教わったのですが、 竹の子ですけど、 「おまえ、もうタケノコじゃなくて、竹だろ」 くらい伸びてても先端はちゃんと食べられるそうです。
じつは、私は根曲竹のタケノコ、 田舎行くと山菜と一緒に売ってる、細いやつ、 あれが好きです。
かわらひわという種類の鳥がいて、 スズメよりひとまわり大きく、全体はオリーブ色で、 シッポが先端で二つに割れており、 羽の縁に黄色のストライプが入ってる。
先日、ある猛禽の食事場の下をあさったところ、 黄色い羽が落ちていたので拾ったのだが、 今朝がた庭に来たカワラヒワを至近距離から双眼鏡で観察していたら、 どうもその黄色いストライプのところの羽らしい。
そうか。カワラヒワも食べるんだ。 たしかにカワラヒワは、スズメよりはうまそうだけどな。
ぴりりぽろろ。(たまに)みゅー。って鳴く。
↑うちに来たかわらひわ。
隣の空き地に菜の花がたくさん咲いていたのだが、 最近、それがタネになってるのを朝から2-3羽で食べに来る。 サヤを割って、タネを突ついている。 しかし、その食べ方がですね、かなりえげつないというかね。
食糧に関しては厳しい野生の諸君のはずだが、 いや、だからこそ、なのかもしれぬが、 食べ物がたくさんあるうちは、 タネが多少こぼれようが、サヤを割り損ねようが、一切お構いなしだ。 うまいところしか食べないし、食べ損ねて落したって知らん顔だ。 他に食べるものがあるうちは、まずいと思ったものなどハナもひっかけないのだ。 庭の柿にしてもそうだったが、突ついて皮が破れて、 干柿ぽくなったものにはヒヨドリもスズメも手もつけない。 これが、ムクドリが来て全部食べ尽くすようになると、 スズメとムクドリも干柿を食べるようになる。
今は食糧が豊富な季節。 こないだは、シジュウカラがメスにイモムシをプレゼントたら、 メスはその中身だけ引っ張り出して食べ、皮は捨てるのを見ました。 シジュウカラのオスもかなり大変そうです。うはは。
餌台によそからもらった高級ジャム置いたら、鳥が喜んだので、 なくなってからそこらへんの安いの買って来て置いたら、 全く食わなかったとか、 そんな記事もwebで読んだ。 わかる。 すげぇありそう。