吉祥寺でみてきた。 スルドい完成度で、おもしろかった。
おめでたい。よかった。
思想信条を権力で変える事などできない、と俺のようなヒネクレ者は言う。 そして自分なりにつっぱってみせる。 しかし、たとえば弾圧対象の思想を持っている人が全員死んだらどうなるだろうか? その思想は無くなる。当然だけど。 そして、そんな例は掃いて捨てる程ある。
だけど、どうしょうもないんだ。 刃向かいたくなるなるんだ。 馬鹿だから。
五日市街道ぞいにある、三鷹のべんとう、定食屋。
本日の昼食はそこで。さんま定食550円なり。
ときどきクルマの雑誌などに「スパルタン」という表現が出て来たりしますが、 スパルタ人の時代には乗用車などはありませんでしたし、 たとえあったとしても、スパルタ人はそんなものには乗らなかったでしょう。 スパルタ人は、3歩以上は駆け足です。 つまるところ、スパルタ市民は、 戦争のエリートとして文字通りスパルタンな人生を送ったわけです。
なんかのきっかけで、 そんな歴史上の話をきいたときに、 「これどっかでみた話だな。どこだっけか? … うわ。 これ、俺んちやんけ。 しかもほとんどそのままやんけ。」
会社の帰り、三鷹の浄水場の横を52x14入れて、ブレーキブラケット握って、 肘曲げて姿勢低くしてぶっとばす。メーター無いんで判らないけど、 さすがに50km/hは出てないか。45km/hくらいかな。 ぶっとばしながら、
「労働したあとの自転車って気分いいものだなぁ!」
なんてことは全然思わなかった。 すげムナくそ悪かった。 しかも最悪に腹へって ボトルに入れたポカリで命繋いで帰宅。 手とかにちゃにちゃになったりして。 信号で止まったりするとまだまだ暑いし。 蒸すし。 あいかわらず体重57.4kg 脂肪率20%だし。
帰ってから、落車でなんか調子がおかしくなったまま放置していた、 前変速機を調整した。
久々に大井埠頭行った。
久々の集団走行はとても面白かった。 また、久々に帰りはハンガーノックになった。 そもそも、朝起きて大井埠頭に着いた時点で走行時間75分、 既に腹減ってるし。
息があがるんじゃなくて、 尻とか脚がイッパイになってチギレた。
今年はイタリヤは当たり年ですね。 サッカーに続いてこっちもかよ。 凄いですね。
大井埠頭でクランクについたコーラを拭き取った。 こういう事をこまめにやらないと、大変な事になる。 これが教訓であり、人生の経験であり、いわゆる一つのヒトとしての学習というやつだ。
せんだって、恵比寿に写真展をみにいったときの事です。
壁一面を占めるほど巨大に拡大されたクジラの写真がありました。 実物サイズでの展示という趣旨だったようです。
水中写真なので、使用機材は35mmカメラです。 銀の粒子が直径5cmくらいのサイズで見えています。 もっと近寄ると2次元直交座標にしたがってデジタルスキャンしたあとが、 テケテケになって2mmか3mmくらいのサイズで見えていました。
銀の粒は2次元直交座標上の一領域の明暗を記録する、 という情報処理技術ないし俗流数学に染まった愚脳が思い付いた、 ありがちな役割からは完全にはみ出し、 半分黒くて半分が白くなることで、 対象が残した像を律義に保存していました。 このため、近くに寄っても離れて観ても、 観るに耐えるものになっています。 つまり、そこにはレンズによって写し取られた「世界」があります。 これが鑑賞に耐える作品の本質です。
デジタル画像とは2次元直交座標上の明暗を記録したデータにすぎません。 圧縮アルゴリズムは数学です。 ですから、 2000年まえにピタゴラスの定理だったものが今日でもやはりピタゴラスの定理であるように、 今日のjpegは永遠にjpegです。 私のjpegをあなたに渡してもjpegのままです。 これが抽象化の持つ力です。 抽象とは対象から何かを抽き出し、他を捨てる操作です。
ある山岳写真家は「わしはデジタルはやらぬ」と頑固オヤジぶり全開風味を 醸していますが、35mm版ですらこれです。 リンホフ スーパーテヒニカの写し取る世界の豊かさたるや、 想像もできません。 彼は情報処理技術への無理解によるガンコ親父風味を装っていますが、 これは「解る奴には自明。そうじゃない奴にはいくら言っても そもそも目的が違うんだから無駄」と割り切った上での意図的な振舞なのでしょう。
あのサイズに拡大しても鑑賞に耐えるほどのデジタル画像を得ようとすると、 求められるスペックはどれくらいになるのでしょうか? むしろ、そんな力を得るために一旦は捨て去った情報を、 また再び手にするために必要となるばかげた努力は惜しみ、 既に存在する手法を使い続けるのが賢明だと思った。
ということで、折りをみて Nikon F3 と 400mm F2.8 を買うので、 その節はよろしくお願いします。>某伯爵