(自分を見ているもう一人の(自分を見ているもう一人の(略 (2007/04/13)


プログラムを仕事として書く

好きな事だけをやっておれば良いのとちがって、 仕事というのは、ややベクトルが異なります。 好きな事をやるのであれば、とにかく、一番面白いと思うところだけを やることになるわけで、しょうもないところをはしょったり、 そもそも無視しちゃったりするものですし、 それが許されますし、 実際、そのようにすべきです。 そのかわり、結果はエゴを満足させる、最高のデキでなくてはなりません。 その評価基準は非常に厳しく、 たとえ世界最高の水準を達成していたとしても、 自分が満足しなければペケです。

しかし仕事は違います。 オッケーを出すのは自分ではなく他人で、 何をやるのか決めるのも他人です。 できるものも、べつに面白いものである必要はありません。 そもそも、そんな基準で評価されることすらほとんどありません。 仕事がそんな基準で評価されるのは、 金持ちの家に招かれて演ずる落語家くらいのもんでしょう。 評価は他人なので、自分を見ているもう一人の自分がペケをだしても、 全然関係ありませんから、そもそも、 自分を見ているもう一人の自分様の出番なんてほとんどありません。 でしゃばってきたら邪魔。 つうか仕事でそんな人物が出て来るのはビョーキ。

ところで、プログラムは私から見れば、大きく分けて二つの部分があります。 一つめは、キモになるところです。 それは、プログラムが扱う問題の本質に正面からザックリと切り込む、 ゴッツいアルゴリズムがほんの数行で実装されているところだったり、 あるいはプログラムのあちこちで呼び出してブン回す、 極限までチューンされた演算ルーチンだったり、 そんな部分です。 何かの霊が憑依して初めて作れる部分です。

もう一つは、その他です。 そんな核心部分以外に、プログラムがやらねばならない仕事はたくさんあります。 寝る前にフロに入って歯をみがいて、ションベンしてから布団に入る、 おっと今日はそのまえに借りたビデオ返しに行かなきゃ、 みたいな処理が、どのプログラムにもあります。 この部分は、べつに霊が憑依しなくても作れます。 こういうありがちで雑多な処理を一つにまとめる凄ぇコード、 なんてのはこっちではなく上の分類ですから念のため。

誰でも書けますが、書くためには一定の工数が必要で、 一定の割合で間違いが起きる。 プログラムを仕事として書く場合、 こっちが仕事上の本質です。 この部分にはマネジメントが必要になり、実際、そういう事が可能であり、 数量化でき、経験を積み重ねられ、マニュアル化され、 文書として共有されます。

よく情報処理方面でみかける、 プログラミングのマネジメントがどうこう、みたいな話は、 私はずっと、全然ピンときませんでした。 しかし、仕事としてプログラムを書いてみた数年間、 私はマネジメントのような事はあまりしませんでしたが、 ようやく世間の事情が上記の如き次第である事を了解したのであります。 ちなみに、よくある仕事のプログラムには、 多くの場合、キモになるところが一箇所もありません。 たぶん、そういう箇所は霊がとりついたり、 もうひとりの自分に 「貴様、俺のコードをどうする気だ? これがプログラムか? まるでそびえ立つクソだ! ジジィのファックの方が気合いが入ってる!」 と言われながら書かないとダメだからでしょう。

しかしながら、プログラムの価値というのは、当り前ですが、 プログラマがそれをどれくらい面白いと思うかで決まるわけではないのです。 そんな事はプログラムの価値には何の関係もありません。 それは、ユーザが決める事です。 ユーザがそれを使う事で、新たな価値を生み出したり見出したりできれば、 仕事として作られたプログラムはそれによって初めて存在意義をうち立てます。

ところで、これでは仕事で書いたプログラムが、 まるでフヌケ状態で書いたかのような印象を受けると思います。 まぁ憑依状態に比べるとフヌケといわざるを得ないと思いますが、 それは相対的な比較の問題ですな。 仕事ではもう一人の自分は出てきませんが、 そのかわり「何があろうとショウは続く」式のプレッシャーを克服して 全てを前倒しで処理し、 そしてこれが重要なところですが、お客にカネを払う気にさせねばなりません。 これは到底、フヌケ状態ではできない事です。

2007/04/12

今朝の鳥

ウグイスが何かの幼虫を食べていた。得意気だった。

ウグイスはヤブの中から絶対に出て来ず、 しかも地上1mくらいのところを素早く移動するので、 声はすれども姿がなかなか見られない。

この時期は、「ほーほけきょ」をやるときだけ、 ウグイスとしては目立つところに出て来るが、 それも1mが2mになるという程度。 よくみると、たしかにヤブから多少突き出した枯れ枝にとまって 鳴いていたりするので、 あれでも本人としては、全世界からの注目を集めるところに 出て来たつもりであろう。 普段は常に姿を隠せるところを移動し、 あまり枯れ枝にとまったりしない。

今朝の夜明けです。 うちの近所で朝一番で鳴くのは、モズとメジロ。 この時点でもう鳴いています。 暗いうちから鳴く。

エナガの巣は楽しげで、特に内側に鳥の羽毛がびっしり敷き詰めてあるところなど、 かなり萌えですが、 親はその愉快な巣の中でずっと作業していると、自慢の長い尾羽が寝グセみたいに 曲がっちゃうんですよ。 そういうのがうちの森にも居ます。左曲がりです。 あれじゃ当然、そのままだとまっすぐ飛べないわけで、斜めになって飛んでいます。

うちの森がその先で公園になってるあたりにスコープ担いで行ってきました。 何十羽もイカルが居ます。 たまげました。

さて上の画像にはイカルが何羽居るでしょうか? 答えはコチラ。 地面で何をとってるのか、までは確認できませんでした。

こちらの木の幹ではこんなふうに、 皆さん木の幹に居るケムシをうまそうに食べています。 右の画像では、イカルが止まっている箇所の上の 木の皮の溝に何匹も毛虫がスポっとはまっています。

シロハラです。柵の向こうで残念ですが、 非常にシロハラっぽい画像がうまく撮れました。 こんどはうまくピントがきました。 このまん丸くて白い腹がシロハラのアイデンティティーです。 地面をほじくりかえしてクチバシに土がついてます。

ハヤブサとは

べつに大きいわけでもないし、見掛けも普通だし、 急降下が300km/h以上といっても今日びそれくらいは地面這ってる乗物でも出るし、 ハヤブサがどんな鳥か、簡単に解りやすく説明することはできないものか、 と漠然と考えていました。

昨日、通勤中に思い付いた。

「10倍でかい凶暴な燕。餌は飛んでる他の鳥。」うっわー、解りやすぅ!と独り悦にいる。

ツバメがあの形と飛翔技術はそのまんまでそのまま10倍でかくなったら、そりゃどえらい迫力でっせ。 あ。尻尾の形がちょっと違うけど。

ちなみに、体重はそのままのスケールで100倍違う。 ということはツバメって10gしかないのか?メジロと同じか。まじで?軽っ!

2007/04/13

職場の裏庭を散歩した。

荒れ果てており、途中でヤブ漕ぎになった。 歩道も獣道と化しており、人間以外の足跡がいっぱいあり、 人間は立って歩けない。 そうそう、これが獣道の特徴で、 どんなにはっきりした踏み跡でも、 立って歩ける位置に枝が出てるような道は登山道じゃないから、 それを判って歩いてる場合以外は道を間違ってるから引き返したほうがいい。

2本まとめて小鳥の尾羽が落ちてたので、 猛禽が居るんじゃないかな、と思って注意していたら、 立ち枯れた松の木に鷹の古巣のようなものをみかけた。 その周囲で2-3本まとまった鳩の羽が落ちていた。 何本もまとめて抜けた鳥の羽が落ちてるのは、 猛禽が食事で抜いたものだったりする場合がある。 鷹の巣の特徴は、巣の上のほうに針葉樹の葉を積み上げる事で、 雛が産まれたあとも、よく親鳥が針葉樹の青葉を持って来る。 だから、多分鷹の巣だったんじゃないかな、と思うんだけど、 まぁ鷹が居るところを見たわけじゃないから。

いや、それでそのへんに鷹の羽でも落ちてないかな、と思ってさ。無かったけど。

鷹の羽って、なんかこう、独特のありがた味があるような気がするね。 ヨーロッパの自転車プロの試合を見てると、 ヨーロッパのプロ選手が試合で乗った自転車がありがたい気がするのと同じ理屈で。 つまり、鷹の飛び方とか暮らしを見ると、 鷹の羽のありがた味が出て来る気がする。

こういうのってトーテムっていうんだろ?違うか。

文系ヰキペディア

内池氏によれば「ヰキペディアの文系項目はダメダメ w」だそうで、 それはそうかもしれないな、とも思いつつ、 ダメかどうかは置いといて、読んで面白いかどうかというと、 面白い記事もけっこう多い。

昨日は、矢川澄子の項目と、東郷平八郎の項目を読んだ。 澁澤、矢川夫妻は、その記事を見る限りでは、かなりソウゼツだな。 それから、肉ジャガを東郷平八郎が発明したとは知らなんだ。 東郷元帥はビーフシチューが食いたかった(当時は元帥じゃないが)そうだが、 海軍のメシ炊き係が作ったら、 デミグラソースが砂糖醤油味になっちゃって、 それはそれでうまかったので肉ジャガが誕生したのだそうだ。

そうそう、砂糖醤油の代わりに味噌を入れれば豚汁に、 カレールーを入れればカレーになるんだぜ。知ってると思うけどさ。


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