縄張闘争で母親が死亡し、 子連れ狼状態のハヤブサ一家では、 その後、母親を殺害したメスの侵入個体が、 昨日くらいから、残された雛の世話をするようになったそうだ。
この侵入個体は、最初は父ちゃんのとって来た餌を横取りし、 幼い一羽を餓死においやるなど、 イケズぶりを遺憾なく発揮していたのだが、 ここにきて態度が一転、 寒い朝に雛を温めたり、 クチバシの周りに付いた肉片を丁寧に掃除してやったり、 自分が捕って来た餌を雛に与えたりと、 どういうことだ? 謎だ。
ツンデレ?
Aktuelle の雛はオス2羽メス1羽のようだ。 育ちの遅かったオスもすっかり白い綿毛がなくなり、 ずいぶん立派になった。 ここは、早ければ今週中に飛ぶようになると思う。
アメリカでは、いま、育雛まっ盛り。 ヨーロッパでは、そろそろ巣立つところもでてくる。
最近はスズメ一家(親と巣立ち雛御一行様)、 メジロの一家や、 シジュウカラの一家が入れ替わり立ち替わり やってきて騒がしい。 メジロの親が雛を集めているのか、 呼ぶ声が聞こえる。 今日やってきたメジロ一家の子供は 既に、かなり立派になっていて 枝移りも上手にできるし、 自分で大きな青虫を捕まえて枝の上でシバキの刑にしてから うまそうに食べていた。
今朝は、多数の羽虫(小型の蛾か?)が一斉に羽化したのか、 それらがまとめて舞い上がって凄かった。重力が上向きの桜吹雪だ。
通勤路7kmのうち、登りが2kmある。 標高差は約100m。これを毎朝39x16で激走(激走するつもりはないのだが、 信号も無いまっすぐな登りなので、つい追い込んでしまう)しているわけだ。 けっこう忘れものをしてとりに戻ったりして(弁当を忘れる事が多い)、 一日2回登る事も稀ではない。 それから自宅が丘の上にあるので、実は帰りも登り。
登りにかかる時間は、せいぜい4-5分なので(測ってないので ほんとうは判らない。距離からの憶測)、 どうってこと無いと思っていたが、 どうも今はそういう事を毎日できるコンディションではないようで、 全くストレッチその他をやらなかったところ、 脚の張りが徐々にひどくなり、腰の調子もおかしくなってきた。 今くらいのコンディションでは、意外とこの通勤の登りは効く、とも言える。 こりゃちゃんとストレッチしたり、激走しない日を入れないと、 しまいに座骨神経痛で起きられなくなるな。
むかし、高校生のころ、 通学で毎日タイムアタックしていたところ、 しまいに腰がおかしくなって、一瞬起きられなくなったことがある。 当時は馬鹿だったので(今も馬鹿だが)、 朝、飛び起きたら、学校に着くまでずっとアウタートップで激走していた。
といっても、所詮ロードマンなのでアウタートップといっても、 今のロードみたいに53x11とかじゃないよ。 48x15くらいだったような。 それに車輪も27インチじゃなかったし。 だから、アウタートップでも回り切ってた。 そうそう、 トップギアばっかり使うもんだから、 アウタートップのスプロケの歯が徐々に欠けて、 しまいに7Tくらいになった。 だから、トップではキレイに回さないと歯飛びして走れなかった。
直せよ。笑
年に100日遅刻してたくせに、アウタートップでタイムアタックしてるのも、 奇怪な行動ですよね。 我ながら、全く意味が解らん。
そういえば、当時のロードのアウタートップは52x13だった。 これだけ見れば、平和な時代という気もするが、どっこい、 これにはとんでもないオチがあるんだ。 インナーローが42x21だった。
どこの剛脚のギアじゃ。ルイス ヘレラか?
「サバイバル登山家」という非常に面白い本があって、 本屋で見掛けて以来、ずっと買おうと思っていたのだが、 つい買いそびれて今に至っている。
興味深いところは幾つもあるのだが、 なかでも、彼がバックアップを切り詰めていくところが面白いと思った。
たとえば、 よく、単独登山のリスクとして「脚を折ったらどうするんだ?」みたいな話があって、 この問題に対して、著者である服部氏は次のようなアプローチで迫る。
もしこの問いをカモシカが投げかけられたとしたら (という前提からして、凄いだろ?)、 「そんな事になったら死ぬしかないので、 そうならないように気を付けている」 と答えるだろう。
ところで、野生動物も、べつに一切バックアップが無いわけじゃないんですね。 クリティカルなところには、ちゃんとバックアップがある。 そうではなかった間抜けな個体や種類は死んで居なくなった。 ただ、「何が致命的か」という基準が、違うわけです。 人間の方がだいぶ基準がヌルいので、そこを野生動物標準で 考え直してみよう、というアプローチです。 といっても、野生動物と違って人間はヌルい暮らしを送るようになって、 ずいぶん経つわけで、それ故にこれは非常に困難であり、 だからこそ、この本が非常に面白いわけです。
よく「卵が先か鶏が先か」という話がありますね。 このあたりに、人間基準のヌルさがよく出ています。 間違いなく、鳥が先で卵があとです。 こんな事は野生では問題にすらなりません。 卵は割れる。卵は食われる。卵は生まれないかもしれない。 ダメだったら、また産めばいいのです。 でも、鳥が死んじゃったら、もう卵を産む者は居ない。 こんな当り前の事が理解できないくらい人間の脳髄はヌルまっているわけです。
昔は人間も野生基準に近いところで生きていました。 これは塩野七生の本に出て来た話ですが、 イタリヤ ルネサンスの頃、 ある女傑が子供を人質にとられて自分の都市を包囲されたとき、 城壁に登って包囲軍に向かってスカートをめくりあげ、 「アホたれ共め、子供なんかコレで幾らでも作れるんだぞ。知らんのか?」 と言ったそうだ。
この本、もう、表紙からしてぶっとんでるわけだが、 やってる事もそれに負けないぶっとび加減だ。 しかしながら、 発想の構成や文章表現が、よく練られており端正な出来栄えで、 読んでいると全くぶっとび感は無い。 カモシカはこんな本は書かないが、 書いたとすれば、こんな体裁になるだろう。
まじめな本なのだ。
余白を全部埋め尽くしてやる! というのはいかにも子供じみた発想ですが、 どうもそういうのが抜けませんね、西洋美術って。
せっかくですから、奈良や京都で、日本美術をちょっと勉強しようと思います。 あれは達人ならではの、脱力した切れ味があります。
越えられない壁は、 べつに本当に越えられないわけではない。 少なくとも、ある種の人にとっては壁ではない。 ちょっとしたコブですらない。 そこを通る事は彼等にとっては当り前の自然な事であり、 特に意識せずとも通れるのだ。
それどころか、たとえばプログラミングなどの技能においては、 それが「壁」扱いされるのは、少なくともそれら言語を作った人々にとってみれば、 不名誉な事なのであり、心外なはずだ。 きっと、「俺の作った言語、そんな解りにくいかなぁ。がっかりだよ」 と思うはずだ。 まぁ、なかには、「あー、やっぱダメすか。そうですか」 と思う人も居るとは思うが。
だから、突破口は必ずある。 世界は理解可能なように構成されているとは限らないが、 技術はそのように(少なくとも願って)構成されているのだ。 だって、人が作ったんですから。
この確信こそが、突破口となりうる。 「なんか、うまくやればできるはずだ。手があるはず。 もっと簡単なやり口がきっとある。」 という確信が、全ての原動力だ。
この確信に応えてくれるものは、よくできたシステムである。 使っていて面白く、 凄い事が達成できる。 その意味で、このモチベーションを失わせるような技術やシステムが、 最悪のものということになるだろう。 つまり、やたらと憶えることがあり、見通しが効かず、 そのわりに大した事ができない。 これじゃぁやる気もうせようというものだ。
きっとできる、何かうまい方法がある、 という信念を持てるかどうかが問題だ、というところで、 また強烈なフラッシュバックがあった。うぐぐ。
数学でぶち折れ、ベンチャーで挫折し、まことにろくでなしの、 壁で首の骨折りまくりな俺様の人生であるが、 そういう昭和枯れススキ的なはなしはさておき、 俺様がunix一般において一番感動したのが、 "self documented" という発想であります。 この発想こそが、突破口への敷居を劇的に引き下げ、 試行の速度と回数を劇的に押し上げ、 生産性を破格に向上させると思いました。
「コンピュータの事はコンピュータに書いてある。 だから人に訊くな。本を読むな。人も本も検索できない。」 この、核となる発想を私に叩き込んだのが、 他でもない h-takashi 師匠だったのであります。
The XEmacs Editor ***************** XEmacs is the extensible, customizable, self-documenting real-time display editor.
XEmacsのinfoの冒頭です。 拡張性を持ち、カスタマイズでき、self-documenting である。 emacs は unixの文化とは異質な方向性を持っていますが、 目指すところは同じです。
この三つで壁を越えよう。
それがダメなら迂回し、違う道を探そう。 どっちみち、その壁は越えたってその先には大したものはないよ。