後方互換性という概念は、どこで生まれたものだろうか。
概念が生まれたというのは、つまり、それを表す用語ができた、 という事である。 漠然とそれに相当する発想はあるが、 一つの特殊な場合に密着していたり、個々に考えられているような段階では、 その概念が誕生したとは言われないのである。 そういう段階から、共通する発想を抽出して扱う必要が生じた時、 これに名称をつけるという事が行われ、 めでたく概念が誕生するわけだ。
そんなわけで、後方互換という概念がうまれる前から、 それに相当する発想や作業もしくは操作は存在した。
たとえば、昨日気づいたのはこういう例だ。 踏切の遮断機は音を出す。「カンカンカン」というあれだ。 あれは何かというと、鐘の音である。
昔の遮断機には人が居たり、 カラクリが入っていて、列車の通過に合わせて鐘を鳴らしていたのである。 これが、技術が変わってスピーカーになった。 スピーカーなら、何の音を出してもよさげなものだが、 だからといっていきなり「びよよよ〜ん」とか鳴っても、 聞いた人が何のことやら解らない。 どうでも良い設備なら、それで構わないが、踏切で列車がきてるのに、 何の事か解らないのは具合がよくない。 だから、あいかわらず鐘の音をスピーカーで再生しているわけです。
こなると、もう、遮断機で鐘が鳴っていたのを一度も聞いた事が無い、 という人が世間の大部分を占めるようになったとしても、 今更違う音は出せないわけです。
踏切のスピーカーから鐘の音を出すようにした人々は、 まさに後方互換性を確保していたわけです。 しかし、その発想を抽象化し一つの名称を与える、 という認識はあったのだろうか。
物を加熱すると、しまいに赤く光るようになる。 電気ストーブとかね。
もっと加熱すると、オレンジから黄色になる。 更に加熱すると白になる。 もっといくと、青くなる。
しかし、黄色くらいでほとんどの金属は融けてしまうので、 ものが加熱されて白くなっているところを見る機会はあまり無い。 「白熱の激突」などと言われるが、 白熱しちゃうと大抵のものは燃えるか融けてしまうのだ。 日常生活で目にするのは、せいぜい白熱電球くらいであろう。 あれも不活性ガスで保護しているからこそ白熱していられるのだ。 しかも最近は、よく見ると球い蛍光灯だったりするわけだが。
しかし、天気予報の表示などで、気温の表現に使われる色彩は、 この事実と完全にくいちがっている。食い違っているどころか、 まるっきり逆だ。 青が寒くて、赤が灼熱の表現である。
普通の暮らしでは、氷など青いものが最も冷たく、 一番熱いものが赤熱した鉄なのである。 だから、あれでよいのである。
色と熱の物理的な相関を実感できる、日常生活における唯一の機会は星空だ。 そこでは、赤い星は温度が低く、青い星の温度が高いのである。
うちの近所の古墳の池には、よくアオサギが居る。
最近は暑いせいか、これが水浴びをしているところをよくみかける。 ちょっとしゃがんで腹を水に漬けているのもみかける。 大きい鳥は暑いのが苦手なのかもしれない。
当面、開発が一段落してしまい、 次のネタを仕込んでいる。
ずーっとwikipediaやPDFを見ているうちに気絶沈没というのがよくあるパターン。 今日も椅子を並べた上に寝転がって2時間ほどがっつりと気絶した。
数学というのは脳内でほぼ完結するので、 プログラムを書くのとはまた違ったてっとり早さがある。 プログラムは、よく言われるように、思った通りには動かない。 だが、書いた通りには動く。 しかも素早い。 たとえばこちらの製品ときたら、痺れるほど速い。 だから、思った通りに書けているかどうか、すぐに判る。 これが面白いところだ。
プログラミングでは、思った通りに書けたかどうかをチェックして直す作業が大半を占めているのだ。
数学では、この手間は原則として無い。 これは実装をしないプログラミングのようなものだ。 まず、大雑把な設計、仕様を考える。 次にそれを実現する詳細な設計(つまり証明だ)を考える。 そこでおしまい。 プログラミングで主要な時間を占める、面倒な作業が存在しないので、 一見らくちんだ。 しかし、正しいかどうかを確かめるのも人手なので、結局、 どっちが面白いとか楽とかいう話しにはならないのだが。
wikipedia で数学関係の記事を見ていると、 最も充実しているのはいうまでもなく英語だ。 次に来るのが日本語であって欲しいところだが、 残念ながらその印象は無い。 「射影平面」に至っては、日本語の記事すらない。 記事の分量もさることながら、記事すら無いのではおはなしにならないので、 つい英語記事ばかりを読む事になる。 もっとも、研究者どうしの会話では、 語順と接続詞だけが日本語で、語彙がほぼ英語という場合も散見されるが。
「set」というより「集合」と言った方が感じが出るし、 「simplex」よりも「単体」の方が音節が少ないので喋りやすいのだ。 音節の少なさ、喋りやすさには、コンピュータ方面における、 タイプしやすさと同じような重要さがあるのだが。 やや残念ではある。
素数ゼミは、素数の年数の間隔をおいて、発生する蝉らしい。
そうらしいのだが、素数ゼミという用語を見て、最初に重い浮かんだのは、 一見初等的な内容から入るが、いきなりトップギアで全開でつっ走る系の、 整数論のゼミだった。
これは最近になってようやく気づいた事なのだが。
関口房朗氏は人材派遣という仕事を発明した人だ。 このビジネスにより、労働組合は弱体化した。 これは伝聞だが、彼の最初の会社は労働争議により大変な事になったそうだ。 会社だけでなく、家族も巻き込まれて、それは途方もなく大変だったらしい。 この二つを結び付けて考えるのは自然な発想のはずだが。
一個人が一代であれほどの経済的成功をおさめるためには、 このような巨大な構造的すき間を発見し、攻略する必要があり、 そして、そのためにはそれなりの動機が求められるという事だろうか。
しかし、こういう例に接すると、私には世にいうところの成功者と言われる人を、 羨ましいと思えなくなるのだ。 これは所詮貧乏人の僻みなのだろうか。 もっとも、有象無象のムカつく連中をまとめて片付けてやったぞ! というのは、それはそれで愉快だという事くらいは解る。
うちにも彼の著書が一冊ある。著者署名入りだ。 しかもちゃんと「藤田くんへ」と書いてあるんだ。ふふふ。 でも、サインしてるときはちょっと機嫌悪かったよ。 「オマエはこんな下らないゴマ擦ってないで前向きな仕事しろよ」みたいな感じだった。 とにかく彼は凄いです。 凄いお金持ちですが、たとえ一文ナシになったとしても、 凄い事には変わり無いと思いました。
今年の目標として、沖縄200km完走というのを挙げていたが、 これを降ろす事にした。
理由は秋の渡りを見たいから。