想定読者なし(2007/09/21)


ひろぽん

要するにアンフェタミンである。つまりれっきとした覚醒剤であり、 いわゆるひとつのシャブである。 昔、商品として売ってたらしい。

文献を読んだ限りでは、 その生化学的機序がよく解らなかったが、 とにかくシナプス、 つまり神経接合部における神経伝達物質の濃度を上昇させる作用があるそうだ。 シナプスは神経回路の繋ぎかたや反応性の変化、 つまり神経系が発揮する学習作用の最も基礎的なところを担う部位だが、 そこでシグナルを伝送する役割を果たしているのが、 それら神経伝達物質である。

これが増えると、シグナルが伝わりやすくなり、 今まで伝わっていたシグナルは強く伝わるようになる。

こうなると一見、アクセル踏みっぱなしクルマ状態になりそうに見えるが、 実は生物は、そう簡単ではない。 生物、特に人間くらい複雑な生物では、 アクセルだけでなくブレーキも神経である。 つまり、そういう物質が、どっちにどれくらい効くか、で 効果が違って来るわけだ。 たとえば 破傷風毒素ではアクセル踏みっぱなし状態になり、 ボツリヌス毒素ではブレーキ踏みっぱなし状態になる。 結果、前者では痙攣が、後者では弛緩性麻痺が起きる。 それぞれの毒素が、それぞれの種類の神経に特異的に結合する部分を持っているのである。

単に神経接合部に効くというだけでは、 どうなるかわからないのです。 ハイになるかもしれないし、落ち込むかも知れないし、 気分が悪くなるかもしれない。 そして、実際シャブの効き目はいろいろなんだそうです。

いろんな商品名で、 戦争などの苛酷な労働環境で使われたらしい。 また、アポロ13でも使われたそうです。

シャブが配られて「飲め」という指示が来る職場ってのも凄いが。

鼻から粉を吸い込むのがありますが、 ありますが、ってどこにあるのかというと、 要するに映画とかで時々みかけますが、という事なんですが、 あれは呼吸器系の粘膜から薬剤を吸収するので速攻でガツーッと効くらしいのです。 そういえば、アルコールも肺で吸うと効きます。直撃です。 直撃なので、加減なく胸一杯吸うと、命が危険かもです。ははは。 あと、あんまりやると喉が痛くなる。 効くわりに、吸収量が少ないからか、一瞬で酔いが醒めるところは悪くない。

しけんにでないえいたんご

stochastic: 確率論 vomit: 吐き気 roundoff: (数値表現における)丸め roundoff error で丸め誤差 ligament: ジンタイ、筋肉と骨や骨どうしを結合する組織

バックグラウンド

私は若いから可能性があるとか、トシくったからもうダメとか、 そういう話はあんまり信用しておらず、 凄い奴は若い頃から凄く、トシをくっても凄いままであり、 ダメな奴は若い頃からたいしたことなくて、ショボいままだと思っています。

ですが、どうも、人生におけるある時期にうけた徹底的な訓練は、 あとでどうこうできないほどの決定力を持つのかも知れない、 と最近思うようになりました。

そしてそれを「バックグラウンド」と世間では言うのではないでしょうか。

なんでそんな事を思ったかというと、 物理や積分で使う、実数とか複素数がでてくるような記事を読んでいると、 1パラグラフで力尽きてしまい、 更に重要な事には、この先どんな話が展開するのか全く読めません。 キョーレツにしんどいです。 当然、間もなく睡魔が訪れます。

しかし、そこから話が完全加法族とかそういう話題になったとたん、 まるで一般書を読むようなスピードでスラスラと読み進める事が出来、 更に重要な事は、 話の展開が「そうきたか、だったら次はこれだろ」てなぐあいに読めるわけです。 私は「これがバックグラウンドというものなのか…」とふと思いました。 つまり私のバックグラウンドは20世紀数学と記法の理論というわけです。

ところで、当り前ですが、私もそういう話が最初からスラスラと読めたわけではありません。 20世紀数学が突き付ける課題と成果は我々が日常生活で親しんでいる 直観と徹底的に馴染まないからです。

話はかわって最近漠然と思うのですが、 20世紀初頭というのは人類の知能が最も高かった時代であり、 現代の我々はその残照の中にあって当時の巨人たちの遺産を少しずつ取り崩して 生きているに過ぎないのではないでしょうか。 あるいは、明白な知的フロンティアが存在したのは20世紀初頭までで、 特にそれは数理科学に顕著だったと言えるかも知れません。

さらに極端に風呂敷を広げてしまうと、 過去より現代が無条件に優れているというのは現代人の傲慢であり、 繰り返される愚行の原因はそこにあるのではないか、 というような事も思います。 人民の幸福を願って始まったにもかかわらず、 もっとも悲惨な結末を迎えた(あるいは迎えつつある) 幾つかの革命がその典型でしょう。 現代の我々が、過去の蒙昧な人々と同じ過ちを繰り返すはずがない、 という思い上がりは、 俗流科学思想にかぶれた近代人ならではの安易な発想なのです。

それにしても、あれを最初に考えた人々というのは、 一体どんな人物だったのでしょうか。 全く見当もつきませんな。 つまりカントールとかヒルベルトとかゲーデルとかの事ですがね。 革命なんか知った事じゃないす。

まぁそうも言ってられないので、 今更ながら微分とか積分とか頑張ってみるか。 なんだ結局泣き事だったのかよ、やれやれ、って事で。

まぁとにかく書いてある内容を暗記しよう。 といっても、いきなり丸暗記は絶対に無理だから、 憶えるためには仕組みが解ってなきゃ。 なんでそうなってるのかをじっくり考えよう。 ここが大概、もっともしんどいところだが、 学術出版物には品質保持機構があり、 理由なく書かれている行は一つとして存在しないので(分野にもよりますがね)、 じっくり考えれば理解できることが保証されている。 証明のない定理を考えるよりも、これはよほど心理的に楽だ。

憶えると、暗算できるようになる。 暗算できるようになると、次の手が読めてくる。 ようし、いい調子だ。 バックグラウンドがどうたらいう自らの世迷い言を、 自分で粉砕してやるぞ。 聖母マリアを敬うと言え!さもなくばクソ地獄だ!

mishima

最近、ユルスナールの三島の評伝を再読したので、 そこで比較的重要な位置を占めている事になっている、 「金閣寺」を読んでみた。

かなりとばし読みしちゃったよ。 退屈で面白くないよ。 ユルスナールを読んだ限りでは、どんな面白い凄い話かと思ったがね。

これは雑誌連載作品で、その悪弊がわりと見られるかな、とも思った。 つまり、連載中に望ましくは毎回、サビの部分が要求されるわけですが、 ミシマでサビといえばそれは、2ページ半くらい続くレトリックです。 結局内容としては「ちゃぶ台を箸が転がった」みたいなどうってことない話が、 2ページ半に渡って嵐のようなレトリックで書いてある。

観念としての箸は決して転がらなかったし、 これからも決して転がる事はないであろう。 そもそも私にとって現実の、個々の箸が問題になったことは かつて一度たりともなかったのであり、箸は常に観念上の存在として立ち現れて来るのだった。 ところでちゃぶ台とは何か。 ちゃぶ台とは私にとって名前に過ぎない。

てな具合に延々とつづくわけです。 ご明察のとおり、2ページ半が経過しても、まだ箸はころがりません。 本当に転がるにはあと半ページ必要です。 わしがやると数行で息切れしますが、これを彼は3ページくらいぶっつづけで 書くわけです。 圧倒的です。 これに匹敵するのは、ピッチャーの投球がバットに届くまで、 30ページくらいかかる「ドカベン」くらいでしょう。

月に一回、そういうのにお目にかかるのは悪くないのでしょうが、 本になってまとまると、ちとキツイ。 そういうのを省いて編集すると、分量は1/3くらいになると思った。

それから登場人物の設定に無理がある。 これらの無理は、ドラマを展開させる原動力として導入されているのだが、 見合った効果が上がっているわけではなく 思わせぶりな点景に留まりがちだ。 その結果、目障りな違和感が残っている。

それでも、最後は金閣が炎上するのが判っているので、 結局我慢して終りまで読んじゃったわけですが、 それがなかったら、間違いなく1/3くらい読んだところで投げ捨ててました。

意味不明な長回しが効くのは、劇です。 あと、短篇。 ミシマの劇は一度観たい。 定評があって最近も時々やるのは「サド侯爵夫人」だが。 本職の役者が 絢爛豪華かつ意味不明な長回しの圧倒的なセリフを喋って わしの自然言語バッファをあふれさせてくれ。

オーシャンズ

13だそうで。しばらくまえに観た。

アル パチーノがでてきて驚いた。

せっかくパチーノ出したんだから、演説させろ。演説。

あと、ブラッド ピットがビミョーにデブっていた。

2007/09/21


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