知る事を欲する。というのは、 アリストテレス「形而上学」の冒頭である。
もっとも、わしが憶えているのはそこだけだが。 このあとは、たしか、その理由は感覚への愛好であり、 なかでも、諸感覚のうち視覚が抜きん出て愛好される、 というような感じに続いたような気もする。
私が読んだギリシャ古典といってもたかが知れているが、 そのなかでも、この本が抜きん出て面白かったと思う。 内容は大概忘れてしまい、面白かったという事しか憶えてないが。 SICP なんかを面白いと思う人なら、 この本は絶対に面白く読めると思う。
俗流発展的科学史観においては、 アリストテレスはガリレオやコペルニクスの邪魔をした 厄介者という程度の位置付けでしかない。 しかし、情報処理史観においては、記号操作に関する重要な発想のあらゆる源泉を、 ここに辿る事ができる。 LISPもアリストテレス形而上学の再発明にすぎない。(ほんとか?w)
「薔薇の名前」がもつ現代における一つの面白さは、 俗流発展史観では旧弊で硬直した無用の長物のはずのアリストテレスが、 自由闊達なルネサンス精神の先駆けとしての役まわりを演じるところにある。
教会が自然科学の足を引っ張り、その理論的基盤がアリストテレス形而上学だった、 というような歴史観もいつかは失われる時が来るわけだが (プロの歴史家でそんな寝言を言う人は、もう居ませんが)、 そんな時代にはこの作品の持つ「面白さ」は、 このように想像力を持って批判的に補完する必要が生じるのかもしれない。
関東ではよくみかけたが、こっちでみかけない鳥もある。
セイタカシギは、よく多摩川の河口に居たが、 今は河口で観察する事も無いので、全く見掛けない。 それから、オナガはそもそもこのへんに居ない。 山(中部山岳ですが)に行くとヒガラやキクイタダキをよく見たものだが、 このへんの山には居るのかな?
こちらに来てよく見掛けるようになったものは、いろいろあるが、 なかでも印象的なのはモズ。 東京では、今ではモズは河原でたまにみかけるくらいで、 どちらかというと珍しい鳥だ。 かなり年配の人でもモズを知らなかったりする。 以前住んでいた品川では、多摩川に行かないと見られなかった。 小金井では庭に来た事もあったが、いずれにせよ、 そうそうみかけるものではない。
だが、このへんはモズの数がものすごい。 モズの縄張になっていない土地は存在しないといってもいいくらいだ。 あらゆる場所、どの区画にもモズが居る。 個体差はあるが、あまり人を恐れず数メートルくらいの距離でも逃げないものも 多い。
退化するという機能が生命にある。
使わない機能が退化してしまい、イザという時にえらいめにあう、 というのが退化に関する世間一般の認識ではないだろうか。 まぁ、わしも最近まではそう思っていたわけですが。 だから、これを機能と捉える見方がどれくらい一般的なものか 私は知らないが、 とにかく、この一見すると厄介者であるところの退化は、 じつは生命に洗練を与える上で非常に本質的な機能なのだということに今気づいた。
退化で困るのは、ブったるんだ家畜的くらしを送っている、 わしら人類と、その飼育動物だけである。 その他の生物は、日々厳しい勝負の暮らしを送っている。 ここに退化に関する認識のズレが生じる余地がある。 日々、厳しい勝負の人生を送っている他の生物、 といっても他の生物なので人ではありませんから人生ではありませんが、 にとっては、使わない機能に費す資源を削減し、 必要な機能にまわす事は、退化によって初めて可能になるわけです。 いうまでもなく要らないものを切り詰めれば、 これは勝負において有利に働くわけです。
環境に適応するというのは、 その環境、生態学的な地位を維持するのに必要な機能を獲得するだけで 達成される事ではなく、 その上で、要らないものを切り詰めてはじめて可能になるわけです。 そして、勝手にコスト削減して、不要なものを削り環境に最適化してくれる メタな機能、 これが退化なのです。
つまり退化は凄いのです。退化バンザイ。
自転車乗りは、自転車ばっかり乗っていると、うまく歩いたり走ったりできなくなったりしますが、 先に述べた観点からすれば、 そうなって初めて自転車に適応した体になったと言えるでしょう。 すなわち漕ぐのが速くなるだけではダメで、歩いたり走ったりが遅くならないと、 本当に自転車競技に適応したとは言えないのである。 空中生活に適応したアマツバメは、平地を歩けないのである。 これこそが、アスリートの模範といえよう。 そうなって初めて野生動物と同等のレベルに到達したと言える。 普通に歩いたり走ったりできるうちは、 要らない機能を維持したままの、家畜レベルという事である。
研究者も、ケソキュウ以外の事がちゃんとできて、 普通に暮らせるうちは家畜レベルだ。わはは
この一週間と1日は OpenGL 週間だった。このライブラリは俺には向いてないと思い知った。 ただし、これが解りやすいと、良かれと思って作ったのだろう、 という熱意というか気合いというか、そういうものは感じた。
このライブラリを実際に使うには、全てを知り尽くし理解していないといけないのだが、 そのためにはこれを実際に使うしかない、というところに本質的な問題がある。 つまり私が置かれているのは n = 0 のときに定義されていない再帰関数状態、 すなわち詩的に言えば底無し沼に落ちたホラ男爵である。
これを脱出する道は、唯一、 「知ってる人に訊く」しかない。 もりもとさん、むとうさん、ありがとうございました。
そのあと、 yendot に掲載された 「あなたのそばにもいるかもしれない10人の困ったプログラマーたち」 を読んで「理論家」の項目に深く傷ついたまま就寝。
それにしても、 ニンジャとか空挺とか、そんなカッコエエ奴どこに居るちゅうねん。 そんな奴居るんやったら、見てみたいわ、ホンマ。
いや、居るな。 そういえば、フリーソフト界には居るよ、そういう人。 今回みたいに激しくハマったときに訊く人達はみな、 ニンジャとか空挺とか魔法使いばかりです。 そういえばニンジャも空挺も魔法使いも全然「困ったプログラマ」ではないと思いますが、 まぁ所詮与太記事なんで、細かい話はどうでもいいや。 ああ。理論家は困ったプログラマだぜ、実際。 アリストテレスがどうこうとか与太をのたまったあげく、 for 文で5行で済むところを末尾再帰で3行で書いて(しかも処理系が 末尾再帰を最適化しないのにw)悦に入ってるのが理論家だからな。 わしが一緒に何かやるとしても、理論家だけは勘弁だ。
でも一言だけいわせてくれ。再帰はべつに、解りにくくないよ。
建築設計方面では、 イシカワくんという空挺隊員を知っている。 バイトの時から空挺で、入社以来、ずっと空挺。 永遠の特攻野郎Aチームとして活躍しているすげぇ奴だ。 いかすぜ。
妻のカードのポイントがたまって、充電池「エネループ」をもらったので、 これを使ってラジオを聞いている。家庭電源は、 モデムとかルータとかノーパソが繋がっていて、あまり具合が良ろしくないので、 まえから欲しかったのだ。