モズ対エナガ (2008/01/12)


2008/01/09

ジョウビタキのめすと、ルリビタキのめすが、 うちの前によく来る。

この2羽は、行動もなきごえもよく似ていて、 姿も一見すこし似ている。 性格は、少しルリビタキの方が警戒心がつよいというか、 薮の中が好きで表に出て来ない感じ。

仲が良いのか悪いのか、今日は2羽一緒にじゃれあうようにして、 赤い実をついばんでいた。

fork と デスマ

もし万能にして全能なる俺様の複製があったら、 あらゆるデスマが解決だぜ。 そんなふうに考えていた頃が俺にもありました。

今はもう、そんな幻想は抱いていない。

なぜなら、万能にして全能の俺様が fork したら、 親である俺様は「やれやれ」とかいって間違いなく寝るのである。 しかし、いうまでもなく、そいつも万能にして全能の俺様であるから 当然のように fork して sleep でありすなわち 駄眠をむさぼる俺様が無駄に増えるだけで何の解決にもならぬ。ブルックスの法則どころの話ではない。

2008/01/10

Ruby のまつもとさんの日記はいつも面白いので欠かさず 拝読しておるわけですが、このほども非常に面白い。

直観的とは何か?

なかでも、最後にリンクされている記事の内容が、なかなか深い。 『直観的というのは、今知っている知識や経験の範囲でうまく対応できる、 という意味である。 だが苦労せずにおぼえることができるようなものは、 大したものではない。 だから、直観的である事は、一部でいわれているほど良い事ではない。 苦労せずに憶える事ができるという事を突き詰めれば、 憶える事が少なくても良い、という事なのだから、 もっとも直観的なものは何かと言えば、 今の知識経験の範囲から一歩も出ないものであろう。 つまり結局のところ直観的といのは「ありふれている」という形容の御大層な言い替え、 という事になりはしないだろうか。』 というような内容だ。

なるほどと思う反面、ちょっとひっかかるところもある。

単に憶えるコストが低いというだけでは 直観的という用語の名には値しないのではないだろうか、と思うのだ。 わざわざ直観的などという、あまり耳にしない形容を持ち出したのは、 大層な用語で権威づけしたい、という動機にはとどまらない、 それ相応な何かがあるからではないだろうか。

既存の知識経験の範囲からおおいにはみ出したものを、 最小限の苦労で獲得できるようになっているような場合。 たとえば、最初の一歩でユーザが既に持っているものが、 うまく応用できるようになっており、 それで獲得されたものが、次の学習にうまく応用できる。 「そう来るとすると、これはこうだろ。ほらやっぱりね」 という具合に進むことができ、最終的に良い感じになったり。 そういうものこそが直観的と言われるのではないだろうか。

まとめると学習コストと得られる内容の関係で、4種類の存在がある。

である。

簡単で凄いものはハッカーつまり頭が良い怠け者の担当であり、面倒で凄いものは、頭の良い勤勉な奴が作り、 以下略である。 1番目の存在だけが、「直観的」という形容に値し、 いうまでもなく最後が最悪だ。 それぞれのカテゴリにあてはまるものを各自妄想してもらいつつ、この項を終ります。

雨の自転車

雨で自転車に乗ると足が濡れるわけだが、 それはまだいい。諦めもつく。 だが、尻が濡れるのはかなり不愉快だ。 レーパンを履いても、かなり不快である。

だからロードレーサーの後ろに付けるどろよけがある。 多くはシートピラー(椅子をフレームに連結固定する部品)に付けるようになっておる。 これを使えば、尻は全然濡れないのであり、非常に快適でもあるし、 荷物や尻に泥砂の類がつかないので、帰宅時に妻に嫌がられる度合が減る。

だが、雨の自転車には良い事もある。

帰ってすぐ自転車を拭けば、洗車の代わりになるのだ。 おお!俺の自転車ってこんなに綺麗だっけか。

職場に行く途中の街路樹にエナガがたくさん居て、 なんだかキーキー怒っているので何かと思ったらモズが同じ木に居た。


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