さて、むげんとわたし、第3回です。全然何も考えてませんが、書きながら考えよう。
無限とはなにか?というと、それは字面でみれば、 「限が無い」と書きます。英語でいえば infinite であり、 すなわち finite の否定です。 つまり、はじめに有限ありきです。 有限を使って無限が定義されておるわけですな。 このあたりを今回はいじくってみることにしましょうかね。
有限は判っているものとする。 そして、無限は「有限でないもの」をいう。 言葉の上だけでいえば、そうなります。 では、ホントに「有限」については解ってるといっていいのか? まずはこのへんからいってみましょう。
n + 3 は 5 である、 というのと、abcdefg が有限の文字列である、 というのはビミョーに違う世界の言明です。 後者をわかりやすく書けば、 「"abcdefg" は有限の文字列である」 となります。 すなわち前者は普通に記号を使っているのに対し、 後者は引用表現です。 カッコつけていえばメタ言語です。
引用の世界において記号列の長さが有限である、 という事実は直観的に自明なものとし、 これを有限性の定義の出発点とします。 たとえばラムダ計算では、n回ラムダした表現が数値nです。 n個のラムダが記号列に出て来るのは、 引用の世界でいつでも検証可能で自明だ(とされている)からです。 これを元にして、たとえば有限の数値nを定義します。 こうすれば、有限についてはある程度解ったような気になれる(という人もいます)。
こんな具合で、ある意味姑息でややこしい、理論屋だけが拘るような仕組みが いろいろと用意されてはいるものの、 結局どうやら、有限ってのは直観的に解っていて、 「それ以外が無限」ということになっているらしい事情が見えて来ました。
まぁこれで有限は解ったとしましょう、 だけど、「それ以外」といってもちょっと漠然としすぎてませんかね。 たとえば、プログラミングで「文字列"a"」というのを 変数に入れる事はできますが、「文字列"a"以外」というのを 変数に入れるのを考えてみて下さい。 最近のよくできたプログラミング言語ならこんなの余裕ですが、 それが簡単にできるのは、 正規表現という有限オートマトンと等価な理論的枠組を 対象物として利用できるようになっているからです。 つまり、「"a"以外」を扱えるのと、「"a"」を扱えるのは 同じくらい自明だといい切るのは、やや厳しい。
文字列ですらこれですから、 「有限以外」 なんて言ってみたところで、何か解りやすい具体的な状況を、 この表現で切り出す事ができたとはいえないのではないか。 つまりこんな無限の定義は、ちょっと中身が薄いのでは? という疑惑が持ち上がってくるわけです。 もしくは、プログラミング風にいえば、 そんな定義、理論的オーバーヘッドが大きすぎて、 わしらの知能に収まり切らず、考える役に立たないのでは? といってもいいでしょう。
無限はさておき、これでとりあえず有限については、 解ったものとしましょう。
む、今回は説明が下手で解りにくいし、記事も面白くなかった。すまん。
3日ほど所用で鎌倉に居たわけですが、 最後の日はちょっと時間があったのでハヤブサをみてきました。
今年も仲良くしていたので、繁殖がありそうです。 まだ産卵していないのですが、 オスが気晴らしなのか、時々、トビやカラスをケ散らしていました。 繁殖場所には、地上に居る人間がよろけるくらいの風と、 複雑な地形による難しい上昇気流があり、 他の鳥はふらつきながら通りかかるわけですが、 彼はいつものことながら、 全ての気流を読み切って空中の一点にビシっと静止したり、 上昇気流で高度を稼いでの急降下から地面、水面ギリギリを高速で滑翔して 向かい側の崖に移るなど、 卓越した飛行を見せてくれました。
彼らは、その気になれば日に10羽もとってこれるだけの腕前があるのに、 普段は一日に一度食事すれば十分で、つまり圧倒的に暇。 しかも、空中で自分を脅かしうるのは、唯一、自分と同じハヤブサだけ。 だから、空では好きなところを好きなように飛んでいいわけです。 べつに無駄を省いて効率的に行動する必要も、 リスクを量って慎重に事を運ぶ必要もない。 だから彼等の飛行はいわゆる一つの文化の極み。空で踊る生物。
ローマたまご一個 ボローニャ 3個 オーバハウゼン ? 泉大津 4個
日本の情報処理業界の地盤沈下がどうとか下請け構造がアレだとか、 そんな報道がやけに眼に付く昨今ですが、 先日の列挙学校に入学して、そんな心配は全く一切、 必要無いというかどうでもいい事だと判りました。 列挙学校の Algorithm Guys が居る限り、 日本の情報処理は安心で安泰で盤石です。
誰でも書けるような、 しょうもない一山幾らのプログラムを一山幾らの商売で売り買いする、 そんなビジネスは誰でもどこでも代替可能なわけで、 それにもかかわらず定常的に持続可能だとしたら、 そこには私には良く解らない越後屋おぬしもワルよのう、的な大人の事情が介在しているわけです。 つまり技術でも経済でもない原理が制御しているわけですね。 また、安い労働力がなくなったらおしまいで、 つまり焼き畑農業と一緒であり、 今ある資源を使ってしまったらもうアウト という点できょうびの世界観とも全く相容れません。 日本の立ち位置がどうこうという以前にこれ自体が却下。
私は、教官の岡本先生に伺いました。 「どうやったらこんな事が解るようになりますか? どういう訓練を積んだのですか?」 「それはですね、ひたすら考えるしかありません…」 「…ぎゃふん!」 この「ぎゃふん」こそが情報処理戦略における価値の、 すなわち経済活動的な語彙で申せば 富の源泉なのです。
コンピュータは何でもコピーできる、とよく言われます。 たしかにハードウェアもソフトウェアもコピーすることができます。 しかし、思考はコピーできません。 だから、アルゴリズム開発は、プログラミングの cutting edge なのです。 それは、人が考えるという営みそのものです。 新しいプログラムは幾らでもでてきますが、 新しいプログラミング言語はなかなかでてきません。 プログラミング言語というのは人の(ロジカルな)思考を表現するものですから、 思考が変わらぬ限り新しいものは不要なわけです。 そしてその切先の一端を、 間違いなく日本のすごい人達が担っているわけです。
情報処理分野では、変化や陳腐化が速いとか世代交替がどうとかいいますね。 コンピュータの世界で唯一、変わらない事がある、それは絶え間無い変革だ、みたいな。 こんなの空騒ぎの出まかせ。
まぁ、簡単に進歩しない一方で、 特に私の場合、簡単に退化はするわけで、そこが悩みのタネでして。
どんな盾も貫けない矛で、どんな矛も防げない盾を突つくとどうなるだろうか?
などと漠然と思いつつ、「銃夢外伝」を買って来た。面白かった。
答えはわしも知らん。3番だったら恐いな。
かぜひいた