野菜のヘタを飼う趣味があるわけですが、 この季節は、ナタネ科植物のヘタを飼っていると花が咲きます。
これは聖護院大根の花。 紫色の菜の花である。 聖護院大根は丸い巨大なやつで、出汁で煮ると非常においしい。
以前飼っていたチンゲン菜は種まで行った。
近所にあるアオサギの集団営巣地。とりあえず証拠写真として双眼鏡で。
昨日はみやけくんと自転車で峠を走ってハヤブサを見に行った。
ハヤブサ以外にもあんがいいろんなものを見掛けた。
ベニマシコ、オオルリ、ウグイス、サシバ、セッカ。
ベニマシコとウグイスは目の前を行ったり来たりして、 じっくり見られた。
ハヤブサが飛ぶとウグイスが一斉に普通のさえずりから 警戒声(ケキョケキョ)に切替えるのが面白い。
ヒノキの花粉か何か知りませんが、先日とはまた違う感じの花粉症がひどい。
そりゃなんといってもフーリエ変換でしょう。
フーリエ変換とは何か? それはですね、簡単に言ってしまうと、 人が耳で音を聴くような類の処理の事です。
世の中の音は、いろんな波が混じって人間の耳に届いているわけです。 ところがたとえばドの音とレの音をいっぺんに鳴らすと、 混じった意味不明な信号ではなく、 「ド」の音と「レ」の音に分離することができます。
聴覚とはそういうものですから、 これは当り前のように思え、いちいち考察するに値する事とは 思えないかもしれません。 ですが、複数のものを混ぜるのに比べて、 混ざったものから構成要素に戻すのは、 一般的に言って面倒な操作です。 たとえば、空気から酸素だけ取り出すなんて大変ですよ。 信号を混ぜるのは、音なら簡単です。いっぺんに二つの音を出せばいい。 ですが、その逆すなわち混ざった音から元の音を取り出すのがうまくいくとしたら、 それは凄い事です。 だから、そういう凄い処理には名前が付いている。 その名前がフーリエ変換です。
耳はフーリエ変換をカラクリで実装したハードウェアです。 入ってくる音が高いほど奥の方で共鳴するようになっていて、 どこらへんで共鳴したか、という情報に変換されます。 3種類の音が混じっていれば3箇所で振動が起きる。 どこらへんでどれくらい振動したか、という情報が聴覚そのものです。 どんな音が何個混じっているか、という情報を直接取り出せる、 そんなハードウェアなわけです。 ところで、このハードウェアが感覚器官として理想的に機能するためには、 ある数学的な前提が必要です。何でしょう?(←制限時間30秒)
それは全ての音はいろんな周波数の音に分解できる という仮定です。 もし、いろんな周波数の音に分解できない音があったとしましょう。 その場合、今の耳ではその音を聞くことはできないわけです。 捕食者の足音がそんな音だったら、 夜中に襲われた被食者は控え目にいっても困りますね。
音は時間によって変化する空気の圧力です。「ド」の音は一秒に880回、 圧力が変化する信号です。数学風に言えば、 時間を引数とし、圧力をその値とする関数です。 だから、先の前提を数学風に言えば、 どんな関数もいろんな三角関数に分解できるとなります。 音だったらひょっとしてそうかも知れんなぁ、 とも思えますが、いきなり関数となれば、 そりゃいくら何でも厳しいだろ、という話になるわけでして、 だからこれを思い付いたフーリエ氏は凄いといっていいでしょう。 ややこしい関数が簡単無比な三角関数に分解できるわけですからね。
この操作の応用範囲の広がりは強烈です。 前回に紹介した固有値と行列の対角化に優るとも劣らないすさまじいものがあります。 さらに、こちらは扱う対象が関数(数値の関連性)であり、 しかも連続性と極限が議論の中心にあるので、 技術的にはずっと高度な内容を含みます (まぁ、数学では初等的だから簡単とか発展的だから難しいという話にはなりませんが)。 ぶっちゃけ言えば、現代の数学は、 この操作を厳密に記述し、信頼できるものにするために、 生まれて来たと言っても過言ではないのです。 フーリエ変換はそれくらいのイムパクトをもったテクノロジーなのです。
この技術を使っている例を探すよりも使っていないものを探す方が簡単、 というくらい広く使われているフーリエ変換ですが、 こんなところにまで使われてるのか!と 最近驚いた例が、確率論の最終奥義のひとつ、 中心極限定理(central limit theorem)の証明です。 中心極限定理とは、独立で分布の等しい確率変数がn個あったとき、 n を増やすと それぞれの確率変数の平均の分布は正規分布に収束するという、一見どころか 何回見ても魔法としか思えない定理です。 しかもこれがフーリエ変換で証明されているという… 深い。深すぎる。
これで終ってしまうとあまりにも内容が無いよう。 最近の俺様のガクガキは役にたつ記事が載るんだぜ。 ただ、証明は偉い専門家が書いたちゃんとした本に全部載ってるから、 粗筋だけで勘弁な。
確率変数の分布も関数です。 この関数をフーリエ変換したものが収束するとき、 元の関数も収束し、しかも収束先も一致するという定理(レヴィ連続性定理)があります。 これを中心極限定理にあてはめてみると、 フーリエ変換した平均値の分布関数の収束先が、 正規分布のフーリエ変換である expt(-t**2 / 2) になるのを示せば、 元の分布が正規分布に収束する事の証明になるわけで、 これにて証明終了です。 つまり中心極限定理はレヴィ連続性定理の特殊例の一つです。 他にも幾つかの固有名詞付き極限定理が、この連続性定理を使って証明できます。 つまり確率論のなかで基本定理としての役割を果たしているのは じつはレヴィの連続性定理であり、 そのエンジン部分がフーリエ変換なのでした。
ちょっと粗筋過ぎる感じもありますが、 これ以上こまかい話を知りたい人は、 確率論の本に当たってください。 σ加法族で始まるスタイルで書いてあるものならば、 ツンデレとかメイドが出て来るものでも構いません(そんなのあるかどうか知らんけど)。 一番手軽に手に入るのは MIT とかの教科書でしょうか(PDFでダウンロードできる)。 私は朝倉から出てる伊藤雄二の「確率論」を使いました。 まぁ、どれを選んでも大差無いでしょう。非常に手ごわいです。
フーリエ変換が分解なら、その反対、つまりどんな音でもいろんな周波数を 混ぜて作れるのではないか?というのは自然な発想であり、 これをそのままアナログ電気回路で実現したものが、 「ブレードランナー」の音楽でおなじみの Vangelis などが「みょよよーん」と 謎の音を出している、いわゆる一つのシンセサイザーという機材です。
ちなみに計算機でこの操作を素早く行うアルゴリズム、 すなわち一般に高速フーリエ変換(fft)といわれているものですが、 これは1965年にCooley と Tukeyが発明したとされていたわけです。 ところが1984年になって、ザ・数学者 つまりガウスの事ですが、 彼が1805年頃とっくに発明していた事が発見されました。 お そ る べ し ガウス。 と、例によってガウスでオチがついたところでこの項終了。
2回読んだ。この本は何回読んでも良い。
その理由は三つある。
ケネス クラークの美術史が面白いのは、 他の優れた歴史書が面白いのと全く同じ理由による。 すなわちそれは、実は歴史ではない。
もう終った事をありがたがっている歴史という営みは、 一見すると非生産的に見える。 だが真の歴史が生産的でありえるのは、 過去に実際にあったものごとに立脚して、 現在を遥かに超えて未来においても成り立つような真理の射程を 獲得しているからである。
面白い歴史研究は、 出来事や作品の背後に横たわる常に変わらない本質を描く事で、 時間に依存せず、過去において成り立っていたのと同様に現代においても、 すなわち執筆時点から計算すれば未来においても同様に成り立つ課題を 扱う事に成功している。 過去の出来事についての記述でもなければ、 未来の予測でもない。 時間というパラメータを抽象により消去した、 普遍的な本質を記述したものなのである。
ケネス クラークのレオナルド研究の出発点となるのは、 レオナルドの人柄である。 凡庸な歴史研究であれば レオナルドが興味を持ったテーマは何か?という問いを立てるべきところで、 クラークはレオナルドが興味を持ち得るテーマは何か?を問い、 レオナルドが使った手法は何か?という問いに代わって、 レオナルドが使うべき手法は何か?という問いを立てる。
このレオナルド研究の真髄の一つは 従って、人柄の推測の精度にある。 あるいは対象者の欲望からその行動を推論する、という点で、 プロファイリングの精度といってもいい。 議論の説得力もしくは得られる結論の精度は、 結局のところ、この推測の精度に依存する。 当然ながらケネスクラークは推測の精度に徹底的にこだわるのではあるが、 なし得る限界を正確に弁え、引くべきところで引き下がるのだ。 こうする事により、 彼が稼いだ精度に対して読者は却って心情的に加担してしまうのである。
対象の人柄の把握を根拠にして、 用いる手法もしくは構図を考察し、 技法の変遷を読み解き、興味の中心が動いてゆくのをつきとめてゆく。 それは、レオナルド タイプの人物が必ずや辿るであろう道程である、 という点で普遍的命題である。 そして読者に、 果してレオナルドの手に現代、我々が手にしているような プログラマブル マシン や光学機器があったとしたら、 彼は何をするだろうか? という問いを演習問題として必然的に突き付けてくるのである。
だからこの本は過去のお話ではない。 現代の話であり、 また未来に読み継がれるべき書物でもあるわけです。
ケネス・クラーク 「レオナルド・ダ・ヴィンチ」法政大学出版局 1981年3月 ISBN 978-4-588-00106-2 (4-588-00106-X)
仕事の話なんて、以前は絶対に書かなかったのだが。
ラクガキに仕事の事を書くのってどうなん? それに、美術史の読書感想文と数学のヨタ話が同じ記事に載ってるのって、 そもそもどうなん? 市場狭めすぎてない?
まぁいいか。ラクガキだしな。 第一、自分が書いてて面白くなきゃ意味が無いよ。
やはり納得はできませんね。 時々、「ああ!これあいつが好きそうだな!」と思ったあと、 「そういやもう居ないんだったな」という事がありますが。