ノーパソ割れました (2008/05/11)


2008/05/08

徐々に今まで妻マシンだったホストでの作業環境が整いつつある。 とりあえず開発に必要なものは全てインストールできた。 以前に書いたコードも問題なく動くようになった(octave のバージョン違いによる 些細な修正は必要だった)。 あとは、メールの読みだけだ(出すのは簡単だ。 いつも使っているメールサーバにトンネルを掘るだけでいい)。

開発以上にややこしい凝った仕組みになっているとさえ言えるのが、 私のメール環境である。 自慢ではない。 嘆きである。 よくぞ今までこれで無事にメールを読めてきたものだ。 なにしろ、かかわるプログラムがあまりにも多い。 そのうち整理せねばなるまい。

メールアドレスを世間に晒した状態で普通に読み書きできるメール環境を 用意したら、こうなってしまったわけですが、 メールアドレスが公開されてしまっている方々は、 一体、 このピンチをどのようにして潜り抜けておられるのでしょうか。 たとえば、研究者が論文を公開したとします。 それには通常、連絡先がメールアドレスなどの形で 書かれているわけです。

みんな、読むのは gmail なのかな?

2008/05/09

パソコンの前に座って何か始めると、一切動きたくなくなる私ですが、 皆さんはいかがでしょうか? 正直いって、すぐ横に置いてある本をとるのさえ面倒です。 マウスに持ち替えるのも面倒なので、最近はthinkpad のイボしか使っていません。 このイボは正直、非常に良いですね。 ポインティングデバイスはイボでしょう。 イボにしてから肩こりも無くなり夜のほうもビンビンでおまけに英語の成績がクラスで一番になりましたよ。

X-32のイボはX-60のイボよりも、よくできています。 微妙に使いやすい。反応が直観的で動きも滑らかな一方 X-60 はイボも含めて全てが安ブシンです。

ところで青木さんの翻訳されたClay Shirkyの「ジン、テレビ、社会的余剰」は、 最近読んだもののなかでは、 私の中でちょっと特殊な位置を占める文書です。 む。よくありませんね、こういうもってまわった言い方は。 言い直しましょう。気に入った文書です。 気に入った理由は、そこに私が信じたいと思っているような事が 書かれてあったからです。 こういう言い方は正直でいいですね。

歴史的にみれば、新聞とかテレビといったいわゆるマスメディアのような、 一方的に流れる情報のありかたのほうが特異でマイナーな存在様式である、 という見方もできるように思います。 放送や印刷は、技術的ないし資金的な障壁のために 一方通行になっているわけですが。

演劇とか演芸においては観客も劇の一部ですが、 そういうありかたは、 参加しない事がそのアイデンディティの重要な要素であるところの消費者 という存在からすれば、 非常に異質で特別なものに見えるわけです。 これはマスメディアにおけるコンサートの扱いによく見られる 「特別な瞬間を共有した」といった表現に典型的に見られる事だと思います。 しかし、印刷や放送が無かった頃は、一方的に享受するだけという関係は例外的であり、 コンサートも特別な瞬間ではない。

だから、ボーっとテレビを見て余暇を過ごすというあり方は、 全然普通じゃないよ、ということを私は言いたい気分なわけですが、 私自身はその主張を信じたいという気持はあっても、 それを実際に信じているかというと必ずしもそうではないのです。

選ぶだけというのは非常に楽で、自分で作るのは非常に大変です。 CUI と GUI の関係なんて、ちょうどこれに当たりますよね。 CUI は入力可能状態になったら何を入力してもいい。好きなようにコマンドを書いて良い。 条件分岐やらループやら、何でもあらゆるやり放題。 そういう、漠然とした自由状態をあたりまえだと思うハカーだけが コンピュータのユーザだった時代は20年ほどまえに終りました。

今では、用意されたボタンやメニュウだけを突ついて一通りの事だけができ、 余計な事はできないものをありがたいと思うのが普通です。 消費において消費者が行うのは選ぶ事だけですが、 これは必ずしも当事者にとってみれば悪い事ではなく、 実際、 「選ぶだけ」が主流を占めてできあがったのが今の世の中です。 だから、ちょっと Shirky の主張がそのまま成り立つとは思えないところもあるのですが、 どういうわけか、私としては、 その意見を強硬に支持したくなるのです。

その理由は、アル パチーノが演じたシャイロックの演説風にいうと 「ひとには持って生まれた性質というものがあって云々 (記憶曖昧御容赦)」 ということで一つよろしく。世路熾駆。

鳥の飛行

ハヤブサの飛ぶところなんてそうそう見られるもんじゃなし、 癒し成分をどこから摂取したものか、 と途方にくれる私が窓から外を見渡せば、 大量に発生した羽虫に群がる燕が大量に 目の前で飛び交っていました。

技巧の幅はハヤブサの方が広いと思いますが、 ツバメはなにしろ飛びっぱなしですから、ぼーっと見てるだけで良い気分ですよ。 しかも体重がわずか10gですよ。

ところで先日、妻の両親及び親戚夫妻を案内して ハヤブサを見に行ったわけです。 トンビ以外の猛禽は見た事無いのが普通ですから、 自分の経験から考えて、まず 「羽をひろげると2mくらいあるんだろ」 とか 「イノシシと喧嘩したら勝つのか」 とか 「人間の子どもくらい持って飛ぶんだろ」 みたいな話とともに、 「トビと区別つかないよ。どれがハヤブサ? えー? まじであれ?カラスより小さいじゃん! てゆうか全然動かないし、俺もう退屈したから寝るよ。」 みたいな展開は当然覚悟するわけですよ。 なんせ野生動物ですから。 鳥の勝手ですから。 アッテンボローの「The Life of Birds」みたいには、いきませんよ、そりゃ。

ところがです。特に野鳥を見慣れていない人が見ても、 ハヤブサの飛ぶ様は、そりゃもう一見して物凄くて、 見間違えるなんて絶対にありえないばかりか、 非常に感動するもののようです。 これまで「あの飛び方は異常」なんて思うのは、いちいちうるさく観察している 自分だけなのではないかと危惧していた、というところがないとは言えなかった わけですが、見慣れてない人からしても明らかに全く違うのであり、 もの凄いのです。 さすが自然界の撃墜王ですね。

撃墜王以外の皆さんも、それぞれキャラが立っていて、 非常に面白いのが野生動物の観察ですよ。

チベットの7年

なんとなく、DVDを借りて来て、久々に観た。

今の中国が順調に経済発展を遂げて、見事に軟着陸に成功してマトモな国に生まれ変わり、 チベットに再び平和が訪れる日は来るのか。 来ない場合は、三国誌よ再び、だが。

ちなみに、うちにある「チベットの7年」の文庫本には、 題に「セブン イヤーズ イン チベット」と書いてあり、カバーがブラッド ピットである。 かなり遺憾の意な状態だが、ままならないのが人生でありこれがいわゆるひとつのセラヴィである。 ♪枯葉よ〜(jasγac 未承諾)。いま初夏だけど。

三国誌は困る、という点で共産党政権と日本の利害は完璧に一致しています。 したがって、チベットにおける人権状況がどうこう言う事は、共産党に対する反逆であると同時に、 日本国政府への反逆でもあります。 しかし、三国誌を避けるために何をすべきか、という点では両国政府は必ずしも一致していない。 むしろ、はげしくその利害は対立しています。 たとえば日本への武力侵攻がもしうまくいったら、 これは共産党政権にとって国内をまとめる最高のカードになるのです。

民主主義国家への反逆は民主主義のドグマの重要な一部を構成しています。 すなわち現時点においては、民主主義こそが反逆者を含む全国民を動員し得る最強のイデオロギーであり、 これに基づいて構成される国民国家はそれ故に、最強の戦争装置です。 これに対して、一党独裁であり、その軍も党の私兵でしかない共産党政権は 国民国家の要件を満たしておらず、 したがって、その戦争装置としてのポテンシャルは民主主義国家に対して劣ります。 反日教育を必要とする本質的理由がこれです。

食糧と原油価格にくわえ、支配体制が持つ上記の理論的欠陥のために、 あまり先行きは楽観できないのではないか、 と私は勝手に思っています。 もしくは、イタリアのルネサンスでもそうだったように、 それなりの規模を持った文明圏がいくつかの政治体制に分裂している状態は、 凄い人が表に出て来るチャンスが多くなるわけで、 孔明とか老子みたいなのが再び出て来たりしたら、 それはそれで良いじゃないの、とか気楽な事を妄想してみたり。

2008/05/11

バンの一家。

雛のうちから足指が非常に長い。 なんか、親に叱られて必死に逃げてる奴がいた。

アマサギ。

アマサギは渡り鳥である。 この鳥は、あまり川で魚をとったりしない。 この時期に、水田や畑でカエルや昆虫を食べるのが見られる。 撮影時に背後をアオサギがとおりかかった。 大きさを比べると判るが、アマサギはだいぶ小さい。コサギくらい。 資料によるとコサギより小さいそうだ。

春日山にて。 オオルリの声がすごかったが、姿は全く見えず。


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