背中を掻く道具ですが。
あれは長さが重要である。長いととりまわしが悪く邪魔であり、 短いと体が硬い私は痒いところに届かない。
うちにはまごの手が無いので、何か代用を探しましたが、 かような事情により、適当なものがなかなか見付からなかった。 ある日、意外なところで意外なものが役に立つ事に気づいた。 アイスアックスのブレードである。
アイスアックスのブレードは本来の用途として、 非常に硬い雪もしくはあまり硬くない氷を砕いたり削ったりして 足場や手がかりを作ったり埋まった奴をほじくり出したりするためのものである。 私の使う mizo の北辰であれば、他に締まった雪に打ち込んで 手がかりとして使う事もある。 つまり、雪に食い込んだブレードは、シャフトを引いても抜けないような 角度になっているわけだ。 ピックであれば切り裂いてしまって体重を支えられないような場合も、 これなら持つ事がある。
だがアイスアックスは孫の手としては重すぎ、頑丈すぎ、 角度もきつすぎ、カドが尖りすぎであり、 したがって、背中を掻くのには圧倒的に過剰スペックである。 やもすれば背骨をけずりとってしまうおそれが無いとは言えない。 だが、注意して使えば不可能ではない。 それどころか、通常のマゴの手ではありえないくらい、 深くスルドくズギャっと捻り込むように掻く事が可能だ。
それ以前に、雪山ではあれほど頼りになるアイスアックスが、 下界では単なる邪魔ものどころか、やたらとあちこち尖った危ない存在でしかなく、 そのあまりな落差が哀れをさそうものなわけだが、 このように、一般民間人的生活においてもその有用性を余すところなく発揮する、 という事実が頼もしい。
きょうびは、一朝有時の際に役立つというだけで本来十分なはずのものが、 平時においても愚にもつかない市民生活とやらに貢献できる事が求められる、 くだらなくもせちがらいご時世である。 このラクガキを読んでいる全国一千万のアルパインクライマー諸君も、 痒い背中はアイスアックスを使い、是非、市民生活における excuse を与えてあげてほしい。 ただし、間違ってピックを使う事だけは無いよう気を付けて欲しい。
南半球で、そろそろ繁殖開始だ。ブリスベーンのテラスでは、 ちょうど今、巣の凹みを掘っている。
Falco Peregrinus は単一種の猛禽として唯一、南極以外の全大陸に住む種類である。
去年作った栗の渋皮煮がまだあるんだ。いひひ
茶碗の中身はカフェ フレド。すなわちエスプレッソに砂糖を適当に溶かしたものを グラスの氷にかけたもの。 イタリヤのバールでアイスコーヒーをたのむとこれが出て来る。 量は、エスプレッソ同様、少ない。
ベンケイソウ。
農協の苗コーナーにあったベンケイソウが、 自分自身の戦略としてこういうキレハシを地面にばらまいていたので、 それを拾って来た。2日ほどで根が出て来た。
ベンケイソウは、小笠原にいっぱい生えている、はからめの仲間。
なんか電気とか電子とかの工学と関連づけられて語られる事が多かった情報系ですが、 そのへんちゃんと分けて考えた方が良いと思うんですよ。
べつに電気とか電子なんか無くたって情報処理は存在するわけで、 現に「アルゴリズム」の語源はアラビア語でして、そのアラビア語が (というか人名ですが)アルゴリズムに なった頃は今で言うところの情報通信機器なんて無かったわけですよ。
もちろん、情報処理が自動で高速に行われない事には話にならないので、 そのための仕組みとしての電気とか電子を無視して 現代の情報処理は成り立たないわけですが、 それとみっちりわかちがたく癒着してしまうと、 情報処理の最もスルドい部分を見失うおそれが無いとはいえない。
というのは、情報処理の面白さは、そのパワーと同根なのであり、 それは何かと突き詰めて考えるなら、 幾つか存在する根源のうち、間違いなくその一つは 抽象化という事になる。 いやむしろ、これこそが情報処理の力こそパワーの源なのである。 いうまでもなく、抽象的存在と実装との過度な癒着は実装への依存につながり、 抽象化の妨げとなるのである。
一方、過度の抽象化は「たかだか有限だろ」とかほざいて 全く動かないコードにつながるおそれもあり、 何事もほどほどにしといた方が無難という無難な結論。
最近キュブリクづいているので次は2001年をみる
地獄の黙示録と、これは、どうしても寝ずに最後まで見れません。
うちにあるのは一冊だけで、「冒険者と書斎」という単行本。 多分、品川に住んでいた頃に古本で買った。小版のかっこいい体裁。
なかにラヴレスのナイフの話もでてくる。多分、ラヴレスのナイフが値打ちが一番あった頃かな。 アルゼンチンで牛の丸焼きを、それで好きな分切り取って食う話に出て来るのだ。 他に、パイプとかライターの話がでてくる。
そういう拘りの品々というのは私の場合、あまり無いわけですが、仕事と暮らしに限って言えば
小型のクロッキ帳を使う。クロッキ帳は簡単にやぶいて渡せるところも良い。 会社時分からずっと使っている。画がどこにでも描けるところが、 何でもビジュアルに考える私にとっては非常に具合が良い。そもそも線が引いてあるのは性に合わない。 線からハミだしたらアカンような気がしたり、あの寸法で字を書かないとアカンような気がするのが、 ヒジョーに良くない。線が必要なら自分でひきますし、まっすぐ描こうと思って描けない私ではありません。 フリーハンドで直線くらい引けますから。
最近は鉛筆である。一時期はボールペンだったが、クロッキ帳の薄い紙だと裏にうつる。 それに、ボールペンでデッサンよりは鉛筆の方が慣れている。線の濃淡が容易であり、 先端も削って成形できるため、表現の幅があるから。濃さはH。鉛筆はナイフで削る。 ナイフは財布に Gerber の silver knight というのが入ってるが、自宅ではハイスのアレで削る。
patagonia の薄くて丈夫なやつ。消去法でこれが残った。 あとは全て尻に穴があいて廃棄した。このズボンはベルトが無いのも良い。
買って来たその日にヰンドウヅを消しリヌーを入れて使って10年あまりになる。 Debian というのが便利でそれを使っているが、他のはどうなのか興味も無いので実際はよく知らない。 こうでなきゃいけないというものは特には無いが、強いてあげれば XEmacs と zshell であろうか。 今使っているものには大電池がついていて、内蔵無線も動くので、一切電線無しで使え、 これはこれで悪くない。 これまでRubyで書いたものを gosh に引っ越そうかな、と漠然と思っている。
遊びのものならいろいろウルサイ事も書きたくなりますが、今回は、まぁ、いいでしょ。