昭和電灯 (2009/07/12)


2009/07/12

午前中は工作。

作ったのはこれ。

全力で昭和っぽく作ってみた。 デンキの傘は横浜東急ハンヅで買って来たのだが、 傘には「60W以下。どうのこうの(以下、なんか平成ぽい注意書き)」 とか書いてあるシールが貼ってあって、 そんなのがあるとゆとりっぽくて、 やさぐれ昭和感が台無しなので速攻で剥した。

風で揺れないように作れとかどうのこうのいう、 妻の厳しいリクエストにお応えするかたちとなり、 ステンレス管に配線を通して、エポキシで固定するなど 昭和ぽいのかそうでないのか良く判らないが、 とにかくそれなりにややこしい構造である。 また、電球は最近流行りの省エネな丸い蛍光灯。

庭には明るさセンサでスイッチが入るインフラが既にあるので、 それに接続した。 だから夕方になると勝手に点灯する。

そういえば、むかし「省エネ」とか言ってたと思うんですよ。 昭和の頃。大平首相の頃の事だったと思います。 省エネは判りますが、「エコ」って解らない用語ですな。 エコって ecology もしくは ecological という事だと思うのですが、 これ、生態学、もしくは生態学上の、という用語ですね。 資源を無駄にする事自体は生態学上で、普通にある事です。 人間のお行儀的文脈から非難されそうな事例を挙げると、 熊はシャケ捕ってもイクラだけ喰って捨てるし、 メジロとか、半透明に熟したまん丸い柿しか食べないし。

なぜ「エコ」が省エネと同じ意味内容を持つに 至ったのか、謎である。 なおこれは日本だけではなく、 英語圏でも省エネの意味でエコが使われておる。

再帰的に芽が生えたベンケイソウ。 そもそもベンケイソウ自体が、はげしくリカーシヴなのですが、 それにしても、再帰にもほどがある。 しかも露骨に指数関数ですよ。 まぁ遅延評価ぽく、全部の発芽ポイントがこの時点で eval されるわけでは ないので実際には鉢に植わった状態では指数関数ではないのですが。 とにかく、ベンケイソウのフラクタルというわけですよ。 クラクラ(めまい)。

極めて単純な原理から眩がするほどの複雑さを生成する鍵が再帰である。

裏をかえせば、再帰を使えばありえない複雑さを痺れる単純さに還元する事ができる。

ゴマダラカミキリが、昭和照明をこしらえていたら、飛んで来た。 懐かしいね。

とても仲良しのでで夫妻。左がででお、右がでで子。 近くてマクロモードを有効にしないと焦点が合わない。

見分け方だが、でで子の胸はででおに比べると茶色味が強いので判るのだ。 ででおは、他のキジバトと違って 「ぼーぼっでっででー。ぼーぼっででー。ぼーぼっでっっででー。」 ってな具合で変拍子で鳴くので庭に来なくても判る。 なお、でで子も、ででおよりもちょっと高い声で「ぼーぼっででー」と鳴くのである。 2羽揃っている時は、たまに互いに「ぼぅ」「ぼぅ」と小さな声で鳴きかわす。

でで子はででおをよく見張っていて、ででおがうまそうなものを 食べていると、すぐにやってくる。

二人は、このあいだからどうやら、 庭に落ちている枝などが気になる時期らしい。 今ごろ巣づくりか? だいじょうぶかこの夫婦。 まあ、わしら夫婦もひとごとじゃないけどさ。

ナイフの意匠とは

私は単なる道楽というか、せいぜい amateur としてナイフを 時たま作っておるわけです。 道楽とはいえ、そのような事をする理由とは何かというと、 それは市販品のなかに気に入るものが無いからなわけで、 もしあればそれを買います。 単に作る事が好きだからというのもありますけどね。

鋼や熱処理に関して多少、思うところがある、 というのもありますが、もう一つは形です。 私が使いたいと思う形状の製品が無いというのも製作の重要な動機です。

そこで、自分が使いたいと思う形状のものを作ったわけですな。 とはいえ全く自分で全部を考えたのかというと、当然、違うわけで、 以前自分が作ったものや、他のメーカーのものを参考にするわけです。 今回で言えば H. J. Schneider の口金や、 Kuzan のハンドルエンド形状などを とりいれています。 とはいえ単にコピって組み合わせるというのも無理があるので、 自分なりにいろいろ考えてはいますが。

手の作りも腕力も、人類として歴史的にはあまり変わっていない以上、 サイズや形状で根本的に異なったものを作ると、 役に立たないという現実があるわけです。 これを、作る側から見れば、どのナイフのどの部分の造作も、 多かれ少なかれ既出である、ということです。 その事実は受け入れざるをえないし、現に、ほぼ全てのナイフ製作者の間で 共有されている。

その上で、少なくともアメリカのカスタムナイフ製作者の間に関して言えば、 意匠を借りたならばそれを明らかにし、できればその先行者に直接に連絡するなどして、 これに敬意を表する事が望ましい、とされています。 なぜなら、そうすることで、意匠や製作技術の交流が、 ひいては進歩が促進されるからです。 当然、新しい(少なくとも、そう見える)意匠を考えると、 それは非常な尊敬に値するものと見なされます。 たとえわずかな、とるに足りない工夫に思われても、 自分なりの工夫というものが明示的に取り上げられて非常に評価される風潮があります。

新しい意匠とはいっても、結局どこかに既に似たものはある。 だから、「俺が考えたんだぜ。だから俺のデザインだ!真似すんなよ」なんて言うのは恥ずかしい事であり、 これを他の製作者が模倣する事は不正ではない。 だが一方で、これだけの歴史がある道具について、 新しい(少なくともそう見える)意匠を考え出す事は容易ではない。 だから、そういう意匠は十分な敬意をもって迎えられるべきだ、という事でしょう。 そういう文化的風潮のなかで、 「おまえのナイフはいくら見ても飽きないよ。売ればいいのに。」 って言われるとちょっと照れますね。

そんな手前味噌はおいといて、自由ソフトウェア文化とはまた違うありかたですが、 根本に流れるものとして、けっこう共通するところがありませんか?


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