801ちゃん (2009/12/09)


読む

ここでいうよむ、というのは先を読むとかサバをよむ、とかいうやつではなくて、 文字で書かれたものを読むほうです。

わしが読むものといえば、多い順に

  1. コミュニケーション(BBS Twitter IRC メール)
  2. 科学、技術文書(論文 Nature,Science,PNAS他のフィード等のweb記事)
  3. 随筆とドキュメンタリー(非技術系web日記 数学を使わない研究の書物 歴史)
  4. フィクション(まんが、文字で書いた小説)

文字で書いたフィクションを私はほとんど読みません。 最後に読んだ小説というと、 記憶に残っているものでいうとスティーブン ミルハウザーです。 らくがきをみると、2008年2月の事です。

読まない理由は、単につまらないからです。

だからといって、全く読まないかというと、これがそうでもないのです。 よくできたフィクションが持つ力は、 ちょうど、よくできた物理学のモデルが 現実をそのまま描写するのではなく雑多な要素を捨象することで 普遍性と本質に到達するのと似ています。 フィクションでないとできない事、というものがあるのです。

こういうフィクションは何度でも読むに値します。何回読んでも面白い。 結末や展開を知っていても、いや、知っているからこそ面白いのです。 なぜか?

自然言語で描かれる小説には、物理学のように抽象化した構造を直接に描写するための 仕組みが備わっていないので、個々の事例、注意深く選ばれ、構築されたもっとも適切な事例を通して、 人生における真実や世界の成り立ちに関する秘密などの英知を描写します。 つまりよくできたフィクションにとっては、結末や話しのスジは、その文体と同様、 内容を伝達するためのメディアでしかありません。

それは、物理学においては個々のよく構成された実験であり、 あるいは古典と言われる数学やソフトウェアの教科書に掲載された例題でもあります。 いうまでもなく、個々の事例の重要性は自明ですが、 それ自体は最終的な目的ではありません。 したがって、話しの筋を知っている方が、 読む方としては余計な負担が無くて具合が良いのです。

残念ながら、通常のフィクションとはそういうものではない。 現実は常に想像力を上回る、などとよくいいますが、 先に言ったようにこれはかならずしも正しくないとしても、 つまりこいつはおおむね成り立つ法則というわけです。 そんなものだったら、実際にあった事を描いたもののほうが、ずっと面白い。

しかし、何事にも例外というものがあります。 ここでいう例外に該当するフィクションこそは、 いわば現実を越える存在であり、読むに値する作品です。 そして、そういうフィクションは何度読んでも面白いのであり、 むしろ2度め、3度めの方が面白いのです。

私はそのようなフィクションだけを何度でも読むのです。

読書

ケネス クラーク「ザ・ヌード」読了。

これは凄い本です。 「Civilisation」もですが、これは凄すぎです。 しばしば、たった一ページに、凡庸な美術書一冊分が収まるくらいの内容が 書いてあります。それが600ページ、300点の図版と共に続くのです。

彼の本はどれもそうなのですが、 とにかく書くべき事がたくさんありすぎるので、もってまわった前フリや、 説明的な言い回しは600ページのどこにも一切ありません。 一番言いたい事を最も効率的なやりかたでいきなり書いてあります。 読む方としては、それはそれでありがたいのですが、 これがずっと続くとさすがに「もー食べられないよー」みたいな状態になります。 なんせ600ページですからね。 まぁゼータク言うな、という状況ですが。

よく「なんでそんな事判るの?根拠は?」みたいな話しはありますが、 彼の場合、それが「根拠もクソも、見れば判るじゃない」というわけです。 普通の人が、散々文献や比較調査して、X線を当ててみて、 あるいは洗浄修復してみてはじめて解る事が、 ただ作品を見れば解る、という一種の extra sensory perception 的な 能力がクラーク卿には備わっているようで、 通常は長い論証と調査を必要とするような事を、 いきなり自明な事として、ただ結論だけを、そしてしばしば詩的な表現で 書く事が可能なわけです。

この本に限らず、彼の著書を読むという事は、 掲載された図版をてがかりに、 彼の洞察を追体験しようとする試みでもあります。 残念ながら、これは素養と資質に欠ける私にとっては必ずしも可能ではありません。 しかし、しばしば詩的とさえ言える表現と、 魅力的な図版の数々がこれに挑戦するよう読者を駆り立てます。 そして、それが成功した時は、まるで自分にもそのような 超越的な知覚が備わったかのような錯覚を憶えるわけです。 これがもまた、圧倒的な密度と共に ケネス クラークの著書の重要な魅力となっていると言えるでしょう。

なお、翻訳も素晴らしいできばえです。 外国文献の翻訳が近代日本の書き言葉を作ってきた、 といってもあながち誤りではありませんが、 まさにそのような伝統の、この翻訳はその最高峰の一つでしょう。 訳者を見ればなるほど納得、というところではありますが。

ケネス クラーク著、高階秀爾、佐々木秀也訳。ちくま学芸文庫 1900円

801

御三家、というか、 こう、ベンツ レクサス BMW 的なクルマってありますよね。 無難にエバりたい系のやつ。

そういうのが、通勤で駅に出る時に、渋滞で止まってたんですよ。 八幡宮の前で。 そういうクルマって、たとえ渋滞で止まってても、いや、それだからこそ、 エラソーです。 そのクルマも一見するとエラソーに見えた。

ところがそのナンバーがですね、これが八百一番なんですよ。801。 もうね、いくらエラソーなクルマに乗って、 かっこつけても、せっかくの御三家がこれで全てぶちこわしですよ。 いやむしろ全てオッケーと言うべきか。 大逆転で好印象ですよ。 でもないか。

ちなみに残念ながら運転者がどんな奴だったか、 そして本当にやおいだったかは、確認していない。

今日のとり

アオゲラ

やっと撮影できた。ヘボいけど一応、アオゲラだと判る。 毎朝必ず来る。必ず来る事は判っていても、 見付からないのが野生動物というものであり、 なんと撮影まで半年もかかってしまった。 声やドラミングで、存在自体は容易に判別できる。 アオゲラが来る木はうちから見て斜面の上にあるので、見にくいのだが、 それにしても居ると判っているのをただ撮影するだけで半年は長いね。

今回、撮影できたのは 季節が変わって、落葉して見やすくなったせいだろう。 葉のある季節であれば、この場所に居ても判るまい。 なかなかてごわい相手である。


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