これはもう25年もまえのはなしだが、 学生の頃、半年ほど新聞をとっていたことがあった。 当時は、俺もちゃんとした人間は新聞くらい読むものだ、 という常識の影響下にあった。 新聞の勧誘が来た時、読売は断ったが他の何か忘れたが新聞を 購読することにした。
しかし、半年でやめた。理由は、読むところがほとんどないからである。 身ゼニを切って買うに値しないからやめたのである。
思い起こせば、小学校の頃の国語の課題で(塾の課題だったかもしれん) 天性人誤みたいなアレを読んで要約するというのがあったわけだが、 「こんなもん、 要約はおろか俺だって書けるよ。」と思ったものだ。 その頃から新聞などというものは俺にとって身ゼニを切って読むほどの ものではなかったという事だろう。 その当時、もっと読むに値する日本語を読んでいれば、 俺のこの貧弱な言語能力も、多少は開拓されていたかもしれない、 などと今更な事を思わなくもない。
だが、それが今の新聞凋落の原因だとは思えないのである。 実際、俺にも原因は正直良く判らない。 内田樹氏のいうように、いっつも同じ調子で同じような事ばっかり ずーっと休み無く書いてたせいで、 バカになっちゃった、というのもそうかもしれない。 むしろこう言った方がいい。 自分にとって新聞やテレビが凋落する、 という現象自体いちいちとりあげるほどの事ではない、 なぜなら、それは自明な事柄に属するからだ。 案外自明な事の原因は良く解らないものだ。 こんなときは問題の立て方を変え、 それが未だに曲がりなりにも、ビジネスとして成立している事こそを 問題として取り上げるべきなのかもしれない。
俺には新聞に載っているような事を知る必要が無い。 知らねばならない情報は、ソーシャルフィルタリングされたうえで、 せいぜい半日遅れで勝手に入って来る。 それ以外の、どこぞの誰かが自分のガキを殴って殺したとか、 そんな話は全く知る必要もないし、知りたくもない。 同じ理由で俺はテレビを見ない。
よくインターネットで「マスゴミがどうこう」みたいな文句を言う奴が 居る。そういう奴を見ていて俺が本当に驚くのは、 おまえらよくそんな時間使って新聞だのテレビだの見てるもんだな、 という事である。 そんな、そんなしょうもない愚痴をたれている自分こそが、 マスコミのお得意様にほかならいのであり、メディアのビジネスの一翼をしっかり担っているのだが。 本当にそんなにムカつくのなら俺みたいに見なきゃいい。 今はいくらでも他に見るもの、やる事があるわけですよ。
べつに出版はどうもならないと思う。 ここ数年は、論文は全部印刷して読んでるわけで、 その経験から言うと紙は偉大だよ。 じっと同じところを見ていると flicker fusion rate に埋もれて判らないけれど、 ディスプレイというのは常に高速でスキャンされつづけているわけで、 これが視線を転じる際にチラつきとなって感知されるのである。 ディスプレイを見ると疲れる理由の一つである。
ノートパソコンのいいところは、 あっと思った時にすぐコードを書いて計算できるところで、 それ以外は紙のほうがずっと良い。 だって圧倒的に軽く、堅牢で、ラクガキもでき、なくしても惜しくなく、 鞄から出した瞬間に読み始められる。
パソコンは、出して起動するまで、思い付いた事を忘れないように 頑張るのは往々にしてかなり苦痛だ。
現状の、変な流通が変革されるかもしれんけどね。 馬鹿は一定居るから書店から馬鹿な本がなくなる事はないとおもうし、 それはべつに構わない。 人間の視覚は便利にできていて、くだらないものは見ても記憶に残らないのだそうだ。 なんでそんな事ができるのかというと、 ものごとが記憶されるかどうかは、 あとでその記憶を使うかどうかで決まるんだって。 自然なガベージコレクションだね。
もっとも、記憶力というインフラの使い方、ありかたは文字の出現以前と以後では全然違うという意見も あるので、そういう観点からすると、出版自体はなくならないとしても あり方自体が大きく変化する、というのはありそうな話で、そうなると、冒頭の 「どうもならない」という意見とちょっと違ってしまいますが。
ネット黎明期から住み着いてる連中は、 モヒカン族で、 感情ではなく論理に基づいて行動し、 事実を重んじ、発言者ではなく発言の内容によってのみ 判断するのだそうだ。 なんでモヒカンかというと、 そうでない連中をヒャッハーとかいいながら、 「北斗の拳」の作中人物的に切り刻んでしまうから、 だそうである。
わたくしもそういうメンバに見えるかもしれませんが、実は違います。 わたくしは、衝動に基づいて行動し、 内容ではなく主に発言者によって判断し、事実をねじまげる者であります。 もっとも、私はキャラ的にはモヒカンです。 「ヒャハー」とか素で言いますから。
この場合、ラオウとは誰かという問題も派生的に現れるわけですが、 これについては今はさしおきましょう。
ところで、ネットスラングでいうところのモヒカンの人々が、 論理にしたがって行動し感情に左右されないというのは全くの虚偽であります。 彼等は自分の感情を制御するのが苦手なので、そうなる場面を恐れ、 近寄らないよう用心している、というのが正確な事情です。
Twitter で教わった、日本の幻想文学における現代の旗手である山尾悠子の新刊。短篇集。
ものによっては3回読んだ。
匕首で腸をえぐられるような味わいには欠けるので、そのような作ばかり読んで来た私には、 若干ものたりないものがないとは言えないが。 機会があれば他の作も読んでみたい。
なんていうふうに書くとイマイチだったかのように見えるかもしれないが、3回読み直した という事実は少し強調しておきたい。 最近、新しいく読む作家を増やすという事はほとんど無い、という事とともに。
JECCの集会に出た時に、 カモシカスポーツの書籍コーナーで買った。
内容は、米と鉄砲だけ持って雪山に入り、オカズは鉄砲で現地調達しつつ登山する、 というものです。とれるのは山菜、キノコ、それに魚と鹿です。
このひと、やってる事も発想も面白いのだが、 文章もよく書ける人で、それらの面白みをうまく表現しているところも素晴らしい。
前職の先輩の著書。 いろいろよくまとまっていて、非常に重宝する。 私のような経歴から経済学や金融工学を学ぶのに適している面もある。
数式の書き方とは一通りではなく、数学、物理、経済 それぞれの文化流儀があって、 その修得がけっこう大変なわけです。 Piet Hut さんのいう tacit knowledge というやつでしょうか。
経済現象を、物理学の文化流儀で記述したものを経済物理学というのでしょうか。 どちらも私にとっては native culture ではなく、動機や慣習というところで ピンとこない場合はしばしばありますので、 まぁ、そういう意味では読むのは大変です。 しかし、経済物理自体が学際的な営みですから、 implicit な知識経験の共有というところに よく配慮して進めようという伝統を感じます。
本ではないが。
まぁ面白かった。脚本に難無しとしないが、よくまとめたと思う。
主人公が暗算中に鼻血出すところが良かった。俺も高校の頃、よく気合い入って来ると鼻血出してた。 むしろ、鼻血出てないうちは、本物じゃない、的な。
どうでもいいけど、暗算と手だけじゃなくて他に mathematica とか scheme を使って計算してたら、もうちょっとグっときたかも。
長らくフロ場の屋根裏を占拠していた謎の野生動物に、ついにお引き取り願った。
出入口は妻がつきとめた。ホムセンで鉄条網を買って来て、 ぐるぐるまるめて出入口に突っ込む事で、通気性を犠牲にせず塞いだ。
鉄条網なんてどこで買えばいいんだ、って思わず検索しちゃったよ。 普通にホムセンで売ってたよ。20mで1500円だった。 やはりはげしくチクチクなので、取扱にはペンチが二つ必要。
しばらくしたら、フロ場にこいつが現れた。とんだ置き土産だ。やれやれ。