久々に煙る生活 (2010/05/10)


2010/05/04

自宅玄関にて。アキオサムシかな?

今日は40kmほど自転車乗った。大船と江ノ島往復。江ノ島は子供背負って ママチャリで行った。 姿勢が立っているところに背負っての移動なので、 尻にサドルが食い込んでまいった。

とりのかんさつ

毎年見ているハヤブサ営巣地だが、 今年は大変な事になっています。

一旦、侵入個体が居つきの雌を海に蹴落して、 縄張を奪い取ったのである。 居つきの雄は侵入個体と交尾して、 もはや完全に繁殖個体が交替したか、と思ったら、 なんと駆逐されたはずの雌が復帰したのだという。 そして侵入個体を追い出して、現在、一ヵ月遅れの繁殖活動中なのだ。

かつては、雄が負傷して3週間ほど狩ができなかった事もあったと聞く。 ここのペアは不屈であるな。

2010/05/04

ふと思い出したのだが、ミシマが腹切ったのは45の時である。

今、俺は43である。 まぁ、うんこ製造機になったはずだが、それにしても何やってんだろ俺は 感が否めないのも事実である。

なんでそんなことを言い出すのかというと、 それは、これまで俺は何やって生きて来たんだろうなぁ、という事である。 よくこれまで生き残って来たものだ、という感慨もあるが、 なぜ生き残って来れたのかな、という反省である。 つまり他の人よりも(相対的に)計算機を使うのがうまいから、 それをお金に変換して生きて来れたのである。 かっこよくいうと、情報処理技術の優位性を換金してきたのである。 その意味において(つまり what I'm doing for living 的意味において)、 私は情報処理技術者であるといえる。 もっとも、 実存的な意味では情報処理技術者ではないのだが。

計算機は非常に複雑な装置なので、 これを望ましく動かすためには無数の呪文を正しく唱えねばならない。 そして、そのための知識の分布は正規分布などではなく、 圧倒的に詳しいごく一部の人と、そうでない大部分という例のアレである。 「そうでない大部分」から脱却してしまえば、 圧倒的に詳しいかどうかは、大部分の人からは見分けがつかないので、 俺みたいなヘッポコでも案外食えたりする、と自分では思っている。

計算機は圧倒的に複雑な装置ではあるが、 世の中のあらゆるもの同様、 その中には法則性と、その埓外にある例外となる存在の2種類がある。 その観点から、生きざまが二つに分かれる。 すなわち、例外規則に習熟するか、法則を追求するか、である。

情報処理技術者というといかにもウルサ型で論理的で効率至上のように 見え、かつ、本人の自己規定もそのようなものである事が通例なので、 意外に思われるかもしれないが、 実際には例外規則の集大成なエンジニアは多く、 情報処理という営為の背後にある古代ギリシアから (あるいは古代インドでも9世紀のイスラム思想でも なんでもいい。お好きな古典的存在論をあててくれ) 連棉と続く深く鋭い形而上学の罠に興味を持つ人は多くない。 だから、俺はこれまで、そういう例外規則の習熟は最小限にとどめ、 様々なアルゴリズムや、その表現のための理論に注力することで、 自分の情報処理分野における存在意義を形成してきた。

しかし近々俺みたいな生ハンカな奴は通用しなくなる時代が来るように思うのだ。 かつて、字が読み書きできるというのは特殊技能で、 それが商業的な価値とみなされたものだ。 今の俺は、たくさん字を知っているよりもむしろ、 いかにしてキレイな字を速く書くか、 という技能にこだわっている代書屋みたいなものだ。

情報処理産業の世界ではコードも人員も交換可能であることが望ましいと されており、そのための様々な工夫も存在する。 だが鉄則といわれるその交換可能性命題には、明示的に言及されない、 ある例外が多くの場合、前提として含まれている事も見逃してはならないと俺は思う。 すなわちそれは、「自分以外は」という限定である。 そりゃ誰だって自分が代替可能なコモティディだとは思いたくない。 条件のよい次の転職先が確保されていない場合には特にね。 しかしながら、マネジメントの失敗によるものではなく、 原理的に代替不可能な要員であるならば、 交換不可能という事実は個人にとっても組織にとっても強みになるはずです。

妻パソ upgrade

新しいぱちょこん dedepo にインストールした Debian sid が具合がいいので、 妻パソにもインストールしてやろうと思い、dedepo 側で apt の cache を apt-line としてネットワークに載せて、ズガっとアップグレード、 と思ったまではよかったが、よく考えたら dedepo は 妻パソとアーキテクチャが違うんだった。 設定してから気づいた。アホか。

そこで /etc/apt/preferences を設定して unstable に upgrade してみたところ、 あらゆるいろいろ足りなくなってまともに動かなくなった。うわー

結局 testing 一本に絞って動くように直したが、 なんか依存関係がおかしいところがだいぶ残ってしまった。

しかし BBCのラジオとか動画もちゃんと動くように直った。 それから、 people.com の記事も見れるようになったらしい。 ついでに、内蔵の wireless も動くようになり、 PCMCIA スロットにさしていた wireless card はお役ごめんになった。

議論とは

これは特に具体的な場とか集団を意図した記事ではないのですが、 議論が機能するためには、 参加者が共に何かつくり出して行こう、という決意を持って参加しないと ダメというのが私のこれまでの経験でいえると思います。

「ろんぱしてやる」とかほざいてる奴が多少は居てもいいのですが、 そいつのノイズが系全体に propagate すると、アウトです。 こういう、エゴの充足よりも系全体の利益を最適化する方向に進むかどうか、 みたいな話はゲーム理論で扱われていそうですね。

あるいは、集団内部で何が伝播する確率は幾らとか、 あと集団のつながり加減を設定して、議論が生産的な方向に行く、 あるいは罵りあいに陥るのを相転移として扱えたりすると思うんですよ。 その閾値とか計算してみたり。 つながり方は多分、よくある scale-free network ですよね。 何が scale-free なのか良く解らないので、この用語はあまり良くない、 みたいな話はありますけど。

何か生産的な営みが存在する場合は、 秩序が系を支配する、という扱いで多分良いと思うのだが、 果たして flame war になっているのが disorder である、 とするのは違うような気もしますね。

こないだからそういう論文読んでるんだ。 テーマは議論の生産性じゃないけど。

ところで最終的に集団が意志決定する弁法として投票というものがあります。 投票ですから成員が所与の選択肢からどれかを選び、 そのスコアで集団の意志決定を行うわけです。 もし選択肢のうちに正解が含まれていて、それが解明できるのであれば、 十分議論を尽くして研究すればそれが明らかにされるわけで、 わざわざ投票するに及びません。 わからないから投票になります。

二つの選択肢のうち片方はその結論が容易に導かれるが、 それはヒッカケでじつはババ。 もう片方が正解なのだが、そこまでたどりつく確率は1/2よりもずっと小さい、 という状況だった場合、 十分な数の投票者があって 投票者が独立に行動するような状況(たとえば無秩序状態)に置かれた場合、 大数の法則により正解が当選する可能性(確率測度)はゼロです。 これは重要な結論なのでもう一度いいましょう。 正解を選ぶ確率が小さくなるのではなく、必ず間違えます。 これを仮に「大数の罠」と呼びましょう。

大数の罠から投票民主主義が脱出する鍵は 投票者の独立性をどうにかして局在化し、 そんな状況の元であってもある一定数が手にするであろう 正解への意志と手がかりをいかにして propagate するか、 という点にかかっています。

それを保証する一つの手段が表現の自由です。

いがらし

何ヵ月もまえのはなしだが、 五十嵐大介の新作 SARU が店頭にあったので速攻買った。 最高面白い。

いつも思うんだけど、この人の気配とか予兆の描写というか演出は 非常に素晴らしいですね。

日常の小さい出来事も良いのですが、こういうでかい話も、その延長で 自然に描けているところも好ましい。 次を読むのがとても楽しみです。

薫製人間2010春

またしても大平宿。「またしても」といっても、2009年は一回も行ってないので、1年半ぶりだ。

飲物 食い物。左から順に、

なかやまがベルギーから持って来たビール的なものと、 村瀬作の果実酒。 他にサラミ、それにチーズもあって、どれも絶品だった。

俺が適当に作ったブタヒレのロースト。保持機構は勝田作。

勝田発案の豆乳鍋も最高にうまかった。

むらせが持って来た魚介類も、最強にうまかった。

キビタキとオオルリをよくみかけた。 どちらも美しい外見と鳴き声(主に雄)で代表的な夏鳥。 オオルリは距離があって双眼鏡では撮影できなかったが、 キビタキは縄張見回りコースの途中で待っていれば、 そのうちやってくる。

3枚めはソウシチョウ。外来種で最近分布を広げているという。 よく地上に降りて何か作業していた。 ウグイスとの競合が心配されている種である。

翌日はまたしてもπ岳(1630m)に登った。暑かった。


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