いきもの自宅紀行 (2010/08/13)


what if 法

便宜的にそんな名前をつけてみた。

前回、何か定理を証明しようというときに、 なかなかうまくいかないと気が付いたら反例を探している、 一体全体なにやってんだか、というような事を書いた。

その時は「余計な事しやがって。さっさと証明考えろよ。バカじゃねーの?」 という事を意味していたのだが、実はこれが案外そればかりではない。 一見しただけでは判らない重要な意味がこれ、つまり、そもそも うまくいくんじゃないかと思って始めた事の、うまくいかない可能性を 検討するという事には隠されているのだ。

それはつまり hope for the best but plan for the worst の実践でもある。

理論研究はリスクマネジメントなんかと全然関係無いと思うかもしれない。 関係無いように思われるのは当然で、両方の経験がある人なんかほとんど居ないからね。 でも全く居ないわけではない。 だってほら、ここに私が居るではありませんか。わはは。 自分で言うとったら世話ないわ、みたいな。

いや実際のところ、理論研究もリスクマネジメントも、 知能の使い方は多少違うかもしれませんが、魂の使い方はおんなじです。 誰もやってないから、どうなるか、やってみないと判らないのです。 過去に事例が十分にあれば、そこから統計処理でも何でも使って、 コストを見積もる事はできるし、 見積もったらそれを織り込んでおけばよいわけです。 それを計算してないのは頭が不自由な証拠で、 あれこれ言うだけ無駄ですからここで検討対象とする事は避けましょう。 そうではなく、計算不可能なものがリスクです。

成し遂げようとする事がうまくいかない可能性を探る事で、 それがうまくいくとすればなぜなのか?という 背景事情が明らかになるのです。 失敗する可能性を検討する事で、問題が依拠している基盤の構造に、 成功するための方策を検討するだけでは決して不可能な方向から、 切り込む事ができるのです。

川を渡ろうというときに、飛び石の 不安定さであったり、その周囲の浅瀬であったり、 流れの強さや方向などを調査することで、 渡渉の段取りが実行可能なものとして現実味を帯びてきます。 これは、見えている飛び石だけに注目していたのでは、 なかなか難しいし事です。 川がどうなっているか、判って始めて渡渉の本質が明らかになります。 つまりその意義は実際うまく行かなかった時の備えを準備しておく、 という理由に限定されるものでは決して、ない。

未解決問題の証明でも同様に、成り立たないとすれば、どこで問題がありえるか? という考察は解決への重要な一歩なのです。 そういった考察は論文として公表される証明には出て来ない、 完成の最には取り払われてしまう、いわば足場養生の類です。 しかしながら、それなくしては決してその証明が完成されないような、 そういう存在なのです。 だから、実は無駄ではない。

「失敗するかもしれない」なんて言ってると失敗する、 縁起でもない事いうな、 みたいな風潮が一部にはありますが、 そういうものとここで言っている失敗の可能性の検討は、 やや異なっています。 敗北への恐怖におびえて、判断停止するのとは違い、 ここで言っている失敗の可能性の検討は、 それによって成功への確信が強化されるのです。

いきもの自宅紀行

はげしく雨が降る夜、いきなりこいつが窓にとびついた。 体長5cmじゃ効かない。みたこともないくらいでかい雨蛙。

さいしょ、なんでこんなところにトノサマガエルが居るんだろ? って思ったんですよ。 でもトノサマガエルって窓にはりついたりしない。 トノサマガエルの指の先は爪。 つまりこいつはよくみたらアマガエル。 カエルって無制限にでかくなるのかね?

さっき飛んできた。 カナブンにしては音が尋常でなくでかくて、えらい勢いだな、と思ったら カブトムシである。

粘菌。なんかこう、すげぇ勢いで繁茂しておりますね。 フラクタル次元どれくらいでしょうか。

ものすごい湿度。腐海か。

2010/08/13

「はやぶさ」トークイベントに応募したら落選のお知らせがきた。あーりゃりゃ


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