非常に優秀なナイフ作家であるラブレス氏が先日、亡くなりました。
無駄の無い、卓越した造形意匠、 単純で堅牢な構造、 また刃物に適するステンレス鉄鋼材料の研究でも知られた大家でした。 わしがナイフを作り始めたきっかけは、 彼の作品が載った写真集を子供の頃に買った事で、 それを暗記するまで見て形をスケッチしたものです。
日本では、彼のナイフは非常に高価な価格がついており、 到底買えないので自分で作り始めたわけです。 その頃には、 Loveless 本流というよりはむしろ、 シュナイダーやクザンの作品などに直接の影響を受けていたように思います。
私は、メディアの報道にもかかわらず、 自分が使った経験上ステンレス鋼が刃物に適するとはどうしても思えず、 製造業の現場で切削用途に使われるような鋼種を使ってナイフを作るようになりました。 このように、今は表面的には Loveless 氏の方向性とは若干違いますが、 無駄のない面で作る堅牢な手持ち汎用刃物を目標とする、 という点では一致していると思います。
私が、彼が素晴らしいと思うのはなんといってもよく練られたその造形です。 定番のラインは言うまでもなく、一点ものの場合でも 場当たり的な解決を決して選ばず、あらゆる場面を想定して 全体として調和した無駄と無理のない形状とバランスを実現しているのは、 非常に素晴らしい事だと思います。
なお、 Loveless 氏の工房自体は存続し、製品の生産も継続される という話があります。
順に、倒木の下に並んでぶら下がるナミコギセル、謎のキノコをゲッ歯類がかじった跡、アオマツムシ。
太平山(150m)の山頂で猛禽の渡りを探したが、トンビしか飛んでなかった。 誰もこんなところまで来ないのか。 それとも時刻が遅いか。
トンビが足をだらーーんと下げたままのんきに風に乗って飛んでる様子は 面白かった。 今日はわりかし暑かった。
風呂水ポンプの電源が壊れたので、 秋月電子で電源を調達。
むとさめが南米に肉行脚にいってしまわれた。
肉は南米にあり、だそうだ。そう開高健が言ってるんだ。 牛をまるごと一匹焼いて、それを焼けたところから自分のナイフで削って食べるのだそうだ。 ガウチョスタイルのナイフというものがあって、要するに包丁なのだが、 それで削って食べるのであろう。 開高さんはラブレスのナイフで削って食べたのだろうか。
近年、たまにみかけるのだが、 著者に対して「著書を図書館で借りて読みました」 と発言する事は無礼であるとし、新刊書店にて購入するよう求める意見がある。
その理由は、発言が「新刊書を購入するほどの価値を見出していない」 という事情を含意するから、との事だ。
その解釈は、確かに成立する。読者は、新刊書を買うよりも、 借りて読む事を選択した。 これが意味するところは、その書物を自分の周辺に置いておきたくない、 あるいは購入費用を負担したくない、 という意図を含意するからである。
著者の名誉は読者の知的発展過程の中に 自分の著書を組み入れてもらう事にあるわけで、 そこから比較すると、 読んではもらえてもそこまでの位置づけを獲得するには至らなかった、 という意味でそれは不名誉な事かもしれない。
先のは著者と読者だけに注目した解釈だったが、 ここで一歩下がって考えてみよう。 ところで図書館とは何であろうか? 図書館とはいうまでもなく、広く公共の利益となるような著書を共有し 科学や文化の発展に寄与すべく存在しているのである。 だから、図書館がその著者の書籍を購入する、という決断を下したという事は、 一介の読書家が読む用、保存用、転売用と3冊購入しようが、 あるいは電車で隣のオッサンが読んでいたものを盗み読もうが、 その違いが全く瑣末なものとなるほどの大きな名誉なのである。 著者は読者に「図書館で読みました」と言われる事は、 更に加えて、そのような名誉に浴した著書のなかから 自分の著書が選ばれた、と告げられているわけで、 それは「自分で買って読みました」と言われる事よりも、 素晴らしい事なのではないだろうか。
名誉か不名誉か、これはものの見方に依存するわけで、 一意的に決定できる事ではない。 だがいずれにせよ、書籍を新刊書として購入するよう著者が その不届きな読者に迫り、その結果読者が購入に至ったとしても、 それは読者の知的経歴に寄与するという名誉とは一切無関係である。 この事は解釈に依存しない。
従って、この発言には著者の名誉とは別の意図があると考えねばならない。
もう一つは、その行為が著者の金銭的な受益を阻害する、というものである。 じつは、「古書店で購入する事もまずい。著者には一銭も入らない」との発言もあるので、 真の意図はこちらにあるのかもしれない。 ところで新刊書のうちどれくらいが古書として流通するのか知らないが、 その流通が無くなったときにそれを補って、 新刊の売上がいくらかでも向上するとしても それはおそらく些少な金額でありめくじらを立てるようなものではないだろう。
著者への金銭的フィードバックが途絶えれば、 著者の生活は成り立たなくなり、ひいては出版そのものが危機に瀕する、 だから図書館と古書店を全てとり潰せば 著者への金銭的フィードバックは増大し、 出版文化は盛大に発展する、という事だろうか。 まさかそんな事を考える人が居るとも思えない。 アレキサンドリア図書館の焼き討ちは、ヘレニズム文化にとどめを刺した事件だった。 神保町の古書店街が消滅したら、著者は金銭的に豊かになり 未曽有の出版文化が花開くのだろうか?
我々が文章を読み、書く能力は膨大な文章を読む事でまず養われる。 そのために、我々は自分の持つ物理的な場所(書籍は場所をとる。 たとえデータであっても。)読むのにかかる時間、そして金銭を投資する。 この過程を洗練し最適化する事なしに、他人の知的発展に資するような文章を 書けると考える事は傲慢である。 古書店も、図書館も、そのために昔から人々が工夫してあみだしてきた、 最適化の一手段である。 古書ではなく、図書館でも借りず、新刊を買えと主張する著者だが、 自らも専ら新刊書を自腹で購入する事で自分の作文能力を錬磨する事は不可能だ。 必ずや、古書と図書館の世話になる。 なぜなら、新刊で手に入る書物など世界に存在する書籍のごく一部だからだ。
そのようにして育った者が、なぜ、よりにもよって自分の著書の読者の 読書体験を制限するのだろうか? あるいは、本当に自腹の新刊書だけで読書体験を構築しているのだろうか。 そして、それらの書籍は古書店に売り払う事もなく自宅に 積まれているのだろうか。