世間の常識を無視する事にかけては最強と言われる私ですが、 それでも無職透明というのは心理的に辛いものが無いとはいえないわけです。 なぜなら、カネが無いからです。 私が親に教わった事といえばなんといっても、 ナイフの使い方と、カネが無いのはクビが無いのと同じ という二つの知恵です。
そのせいかどうか知りませんが、 寝てる間に変な感じに歯ぎしりしてたら、奥歯がおかしくなった。 これは心理的要因もあるが、枕が高いせいでもある。 そこで、枕が高いとクビが前に曲がって肩も凝りやすいし、ろくでもないので 枕を使わない事にしてみた。
そうしたら、背骨がいきなり伸ばされて肋骨まわりの筋肉が 寝違え状態になった。ギシギシ。 寝違え状態のところに、冬ザックに満載の荷物を背負って自転車で往復したら、 あちこちかなりおかしくなってまいった。
それがようやく今日になって戻って来た。昨日はまことに難儀した。
渋皮煮は、妻がクックパッドで調べて来た 瓶づめ常温保存法により、瓶ごと煮沸 > 蓋を緩めて空気抜いて閉め直す > とどめの煮沸 という段取りで瓶づめにした。
この段取りでは瓶の中が負圧になるので、蓋がへこむ。 大気圧が蓋を密閉するとともにへこみが密閉の指標になるというわけです。
現行品で一番気に入って使っているのは深川の明染付白抜紋切立碗皿で、 これは非常に良いと思う。 伝統的で単純な形状に必要十分な、しかも装飾らしい装飾が入った構成で、 色も良いし金銀が無くて毎日使えるのが良い。 先日割れたのでまた買って来たくらい気に入っている。
とはいえ、この茶碗は、 気に入ってから買うまではずいぶん時間がかかったのである。 非常に優れた意匠を見つけてからすぐに家に連れて来ると、 なんか負けたみたいでシャクにさわるからである。 しかもお値段も手頃というところが余計むかつく。 だから私は手に入れないといけなくなる積極的な理由ができるまで、 我慢していました。
しかし茶碗の世界は、 現行品以外ではもっと凄いものがいくらでもあるようだ。 うちにある大倉の碗皿は素晴らしいできばえなのだが、 しかし似たようなものすら残念ながら今の大倉では作ってない。 つまりこういうものは絵画や彫刻同様に、 過去よりも現在、現在よりも未来が良くなるという保証はなく、 むしろ過去にこそ優れたものがあるらしい。 げにおそろしき世界である。 でも、毎日使うとなるとやはり現行品から探した方が良いでしょう。
どこかで、「毎日使うものには気に入ったものを使うと気分が良い」 みたいな暮らしの知恵を見たが、 それは全くその通りだと思う。
近代以降の造形哲学においては、 装飾は無駄であり、無駄は犯罪、というドグマがあるわけで、 そういう風潮のなかにあって装飾らしい装飾を説得力を持って実施できている、 という点も、好ましく思う。 まぁこのあたり若干厨二ぽい理由だが、現在の私のこれが限界。
日本の公共交通機関では、やかましわ、余計なお世話じゃ、 といいたくなるアナウンスでみち溢れており、 それが私はやや苦手なわけですが、 そういうアナウンスの一つに「忘れものするな」があります。
忘れものというのは忘れているから起きるわけで、 それを「忘れるな」と喚起したところで、 思い出すわけがないんですよ。 もうポインタが失われているわけですからね。 何なんですかね、あれは。
「危険物は持ち込まないでください」というのも同じくらい意味不明ですよ。 危険物を持ち込んで、ワシの人生、最後に一花咲かしたるでぇ、と思っている人は、 「持ち込まないでください」と言われたところで、へでもないわけです。 あるいはうっかり危険物を持ち歩いていて、うっかり持ち込んでしまう人向けなのかもしれませんが、 うっかり携帯する危険物ってそもそも意味が解らない。
多量のマッチとかバッテリとかね、 うっかり携帯しないでしょう。 多量の2硫化炭素とか乾燥したヨウ化アンモニウムとか、うっかり携帯 することはありえない。 うっかり鞄にαヘキサニトロヘキサアザイソウルチタンの結晶が入ってたとか、 ありえない。
とかいってシジュウカラがヒマワリのフィーダに来た。 やっと来ました。 じげじげじげ。
かわゆい