こんばんわ. 意識の高い鬼畜デスハッカーです. ソーシャルネッツワークの facebook でこんな記事をみかけたよ. ちょっと話題になったので, 他のところで見た人もあるのでは?
この記事に引用されている The Future Of Employment: How Susceptible Are Jobs To Computerisation? という研究(原文タイトルは全部大文字なんだけど読みにくいので適当に改めました)が面白かったので, 今日はこれをネタにちょっと与太でもとばそう.
この研究の底にあるモチベーションは,
はたして技術革新によって仕事が消滅する割合と, 新しい仕事ができる割合を比べるとどうなの?
という疑問である. John Maynard Keynes が, 技術革新によって失業が加速されるとして "due to our discovery of means of economising the use of labour outrunning the pace at which we can find new uses for labour" と1933年に言ってるそうです. さすがケインズ. つまりこれは昨日今日の話ではなく, 昔からある, 権威ある疑問ですよ, という事なんだ.
かつて存在していたが, 機械によって自動化されて消滅した仕事がある. 昔はデータを入力する仕事とか, ソースコードを入力する仕事とか, 電話の回線をつなぐ仕事なんかがあった. 2004年には, クルマの運転に必要な技能と判断はあまりにも多岐に渡り, 最適化を行う対象があまりにも多様で, しかも素早く状況が変化するために, 到底自動化できない, とする研究があったが, わずか数年後, 2011年には全自動運転自動車が発表された. 機械学習やインタフェースの技術はものすごいスピードで進展している. さきのパラグラフでとりあげた, 由緒ある疑問の一環として, これからさき, どんな業務が自動化されて人の手を離れるのか? また計算機の力が到底及ばない領域とは何なのか? という問題を扱ったのがこの研究だ.
扱った職業は702. これを, 複雑な認知, 創造的知性, 社会的知性など, 要求される技能の度合いでスコアをつける. またそれぞれの技能がどの程度自動化しやすいかを, 別に人が判断したデータを元に計算しておく. この結果を元に, それぞれの職業がどの程度自動化しやすいかを計算したのである.
結論としては, 単純な認知と特殊な知識で解決できる仕事は自動化される一方, 会社の社長など全般的な社会的知性が要求される仕事や, 交渉事は人間の手を離れないだろう, とされている. また, 創造力を必要とする仕事も自動化は難しいとされている.
自動化されるであろう仕事としては, たとえばスポーツの審判, 電話営業など, 既にある程度自動化されているものが挙げられている. このへんに異存はない. だが, 自動化が困難である, あるいは不可能である, という事を示す計算を実行するのは, あまり簡単ではないのでは? と思った次第だ. これは非常にいいかげんな類推だが, ある手続きが計算不可能であることを一般的に示す計算手続きは存在しない, というのは計算理論における古典的な結果だが, この古典的な問題に「接近」するほど, その手続きを作るのは難しくなる, というのは, なんとなくありそうな気がするのは俺だけかね.
つまり, 自動化可能であることを示すのは, 実際に自動化してしまえばよいわけだが, 不可能である事を示すのは, これよりもずっと難しい. だから, この二つの両極端の場合の間を連続な尺度でつないでみたときに, 自動化がたやすいほうは信頼性が高そうに見えるけれど, 自動化しにくい, というほうはその尺度が怪しくなるのでは? という事だ.
具体的にいうと, たとえばこの研究では創造性を過大評価していると思う. 創造性は分割不可能な単一の概念ではない. 創造的な事をやったことのある人なら誰でも同意すると思うが, 当の本人は創造したとは思っていないものだ. 本人は自明な手口の積み重ねあるいは組み合わせだと思っている. しかしこれがいくつか積み上がったものを横からみると, 魔法にしか見えない. 立場の違いによる認識の落差という偽りの問題につけられた名前が創造性だ.
したがって, 創造性とは計算手続きに還元可能な二つの概念の組み合わせにすぎない. ひとつめは, 解の探索で, もう一つは解の評価だ. 探索によって価値ある解に到達する事が, 創造性とぼんやり呼ばれている概念の計算手続きによる実装である. 上記研究では数学者が自動化不可能な職業の例としてあがっているが, 数学が自動化困難なのは, 探索すべき空間が膨大である(正しい計算が無限にある)事と, 解の評価が時に非常に難しく, また無数にある正しい計算のうち, 意味があるのはごく一部だからである.
解の空間が膨大であり, その評価も困難なゲームの代表とされていた日本の将棋も, いまや計算機に勝てる指し手のほうが圧倒的に少数であり, まもなく誰も勝てなくなる日がくる, という事実をここで思い起こしておくべきだ. かつてゆるぎないものと思われたゲームにおける創造性という概念は, 今では計算手続きに還元されているのだ.
だから, 自分のやってる事が自動化困難だと信じ込むのは, 俺は, あんまり筋がよくないんじゃないか, と思う. 実際に自動化がたやすいものを, そのように証明することはたやすい. 実装すればいいのだ. しかしそうでない事を証明することは, そうではない(つまり難しい)のだ. だから, 常に, 「どこか自動化できるところは無いものか」というテーマを追求すべきだ. そして, もしあなたが十分に意識が高いのであれば, そこから全力で逃走するのだ.
もうひとつ. かつて自動車が登場したとき, 馬車はなくなったが競馬は残ったように, 計算機のほうが将棋がつよくなったとしても, 人がさす将棋の価値が失われるとは俺には到底思えない. このあたりの事情も上記研究では斟酌されていないが, これは経済活動としては, 無視できる規模に止まるかもしれない.
ぶっちゃけ技術革新なんて棄民の歴史ですわ. キレイごと言うな. というわけで, 特にオチはないっす. うひひ
シロハラ
モズ
グリル兼トースタとしても大活躍である. まったく便利なものだ. なぜ一般家庭に普及していないのかまったくわからない.