最近よくナイフの事を考える. 次に何を作るか, とかそんなような事をだ. なぜか.
「カドがたっていても持ちやすいハンドルってあるんですね」って俺がこないだ作ったナイフ見て言った人があって, なるほど自分で作る人は, やっぱしそのへん考えるねんなぁ, と感心したのをおぼえている.
丸くしてりゃいい, というのは一種の思考停止であり, いっぱい考えたほうが可能性は多少なりとも広がるに決まってる. ニギリは力をこめなきゃいけない部分なので, 滑らかである事同様, 滑らない事も重要でで, 適当にカドがあった方が持ちやすい.
ただ, どこにどんなカドを残すのか, という事になるとあまり自明ではない. ところで, 道具を使う上で小指と薬指の果たす役割というのは親指についで重要で, 親指と人差し指と中指がパワーを担当しているとすれば, 小指と薬指の役割はコントロールである. だから, この2本の指に何らかの情報が, もっといえばポジティブなフィードバックが柄の側から提供されるべきである. この認識にもとづいて柄の前半部分と後半部分を分けて考えよう. 前半を入力のために太く, 丸くするとして, 後半はフィードバックのための情報源としてどういう形が適切なのだろうか? 今回の設計はそのための一つの実験だということもできる.
いずれにせよ前半部分には, むんずとわしづかみにして不安無く全体重をかけられるボリュームが必要である. この点フィンランドの民族ナイフや Ray Mears の設計はよく事情が判っている. いまのナイフは高さ(って何だ?w)23.5mmに対して厚みは22.5mm. おかげで全体重をかけての餅のスライスでも全く不安はない.
適当にカドがたってるほうがみかけかっこいいです. 理由はよくわかりません. 以前は俺も, 全面的に丸いほうが良いと思っていました. カドをたてる事にしたのは, 最近のステルス戦闘機の外観からの影響が, 案外あるかもしれん. 最新の航空機が客観的な美の基準を定める, というのはありそうな事だ. エアショーはテクノロジーのパリコレである.
ホットケーキは火鉢を使うと, ひじょうにうまく焼けることがわかっています. 今朝はガスで焼いた分は焦げましたが, 火鉢でやった分はこのとおりだ.
ベーコンも食べたくなったのでやってみよう.
ベーコンは油が落ちるので, 網で焼くと大変なことになります. フライパン必須です. しかし火鉢に乗ったフライパンにベーコンが乗っているというのはやや絵てきに違和感ある.
違和感ありますが, ベーコンも問題なく調理できました.
普段作業している居間の窓のまえに生えているツバキによくメジロがくるのだが, 距離が近すぎて望遠はどれも焦点が全く合わない. どちらもトリミングしてレベル調整した画像である.
今やってる仕事では適当なアルゴリズムがわからないとか, データがでかすぎて既存の手法で扱えないとか, いろいろ難しい局面はあるわけだが, データが足りないところからなんとかする, というのが一番厳しい.
なぜかというと, それがいわゆる未解決問題と同様の構造を持っているからである. 本当にデータが足りないのなら結論は得られない. そして, 必要なデータがもし存在しているとしても, それはどこかに隠れていてその所在は自明でない. 存在の保証がない, というところがポイントだ. これが問題解決への意志に対する試練となり, やる気や確信を削り取ってくる.
じゃあ適当なアルゴリズムを探すのは未解決問題じゃねぇのかよ? っていう話は当然あるわけだが, 私見では, なんか見落としてない限りは入り口と出口をつなぐ道の存在自体はほぼ自明であり, あとはそれをさがす作業が残ってるだけである. 「考える」部分への負荷はそれなりに大きいかもしれないが, 根性とか展望への確信みたいなところにダメージをくらうことは少ない. ちなみに, その見落としとは具体的にはデータの不備であったりするわけですが.
足りない情報は, 計算では増えない. 観測できなかった部分を判ってるところから推測することと, その部分の観測値が使える事は全く違う. もともとある情報を見やすくすることや, それを使った仮説の検証は計算でできるが, もともと無いものを作ることはできない. トリミングした画像から元の画像に何が写っていたか, 普通は判らないのである.