カラヴァッジョは読み終わったので次はこれを読んでいる.
文学評論集で,どれも文学評論かくあるべし,という圧倒的に高いスタイル及び強い内容に満ちている.
特別に興味深かったのは,バーナード・ショーに関する評論「バーナード・ショーに関する(に向けての)ノート」で,俺はバーナード・ショーという人の作品はいっこも読んだことがないが,(他にも全く読んだことのない作家が多数取り上げられているが,知らないなら知らないなりに興味をもって読むことができるのも本書の優れている点だと思う)今の俺の仕事に深く関係する極めて示唆深い記述がある.
「万物は流転する」という碑文に出てきそうなこの一文にはヘラクレイトスの哲学が要約されているが,ライムンドゥス・ルルスなら次のように言うだろう.最初の一語が与えられれば,後はいろいろな自動詞を当てはめていけば,二番目の言葉が見つかるだろう.そうすればヘラクレイトスのあの哲学だけでなく,その他多くの哲学も偶然の働きによって見つけ出すことができるだろう,と.それに対しては次のように答えることができる.すなわち,排除によって得られた決まり文句には価値もなければ意味もない.その決まり文句が何らかの意味を備えたものになるには,我々がヘラクレイトスになきるか,もしくはヘラクレイトスの経験を通してその決まり文句を考えなくてはならない.(中略)黙っていてもその人の聡明さが判る場合もあれば,もっともらしい意見を述べているのに,その人の愚かしさが透けて見えることもある.(中略)ダルタニアンは数限りない武勲を立て,ドン・キホーテは打ちのめされ嘲笑されている.にもかかわらず,ドン・キホーテのほうが勇敢に思えるのである.以上のことから,これまで提起されたことのない芸術状の問題が導き出される.すなわち,作者は自分よりもすぐれた人物を創造することができるのか,というのがそれである.わたしならその問いに対して,いや,知的にも道徳的にもありえない,と答えるだろう.
何がどう示唆なのかというと,身も蓋もない話だ.「文学」を「データ分析」にreplaceしても事情は同じであるだろう,ということだ.
さきの引用にもあるとおり,ボルヘスの短期記憶とコンテキスト・スタックの深さは特筆に値するように思われる.あるいは,もっと平易に書き下すこともできるかもしれないが,ある種の著者と読者には,このように圧縮された記述スタイルのほうがかえって負担が少ないとも言えるのである.
「アレゴリーから芸術へ」も同様に圧巻.
とはいえ,若干残念に感じる部分も無いわけではない.たとえば永遠に関する論考には,やや納得できない部分がある.有界であるかそうでないか,という課題と端があるかどうか,という課題,それに,方向性があるかどうか,という三つの時間に関する疑問が混同されているように見受けられる部分である.とはいえ,そこに疑問があればそういう専門の分野にあたればよく,言語による芸術の可能性を扱う上では,このような数理的な過誤も過度の欠陥とはならないと思う.
文芸評論とは常に「存在とは何であるか」までほじくり返す必要があるものであるらしい.それにしてもアレゴリーの可否が実在論と唯名論の対立に自然に帰着する,というのが,何度読んでも魔法にしか見えないので本当にすごい.俺にはこういうアホみたいな感想しか書けないので,気になった人は是非読んでみてほしい.
こどもの学校が休みなので,北海道にいった.
大洗から苫小牧まで船だ.もっといろいろ見れるかと思ったが,ちょっと寒くて外に出る気になれなかった.大型のカモメがridge soaringしていたぐらい.
苫小牧のオジロワシ.今回,撮影システムに新たに導入したビデオヘッドの威力がよく現れた画像だと思う.猛禽が飛翔している画像など,以前は絶対に不可能だった.今は,焦点を合わせながら望遠鏡を振ってシャッターを切ることができる.
北大の研究林.
コガラかハシブトガラかはわからないが,この種類だけが非常に厚かましく,俺の顔をみて「なんだおまえ,何も食い物持ってないのか」といった.
洞爺湖.最近の火口周辺がすごい.それに,昭和新山もすごい.宿は当然,源泉かけながし.
Trading post の味わいがある積丹半島西岸の街と,神威岬のカモメ.そして最終日の札幌の虹
座敷の障子を全部張り替えた.
障子の中に障子が入ってるタイプの障子なので,ものすごく大変だった.丸一日かかった.午前中かけてめくり,ごご全部つかって張った.