世間でよくみかける,俺が残念に思う誤解にはいくつかあるが,その一つは営業というものに関する誤解で,これは商習慣一般に関する誤解といってもいいのだが,営業とはゴミをありえない値段で必要としていない人に売りつける事であり,しかもそれに失敗すると社にもどったときに泣くまで詰められる,というものだ.でも,これについては以前書いたのでもういいや.
もう一つは,交渉に関する誤解だ.
交渉の達人というと,その場でいきなりとんでもない屁理屈を思いついて関係あること無いことをまくしたてて,勢いで押し切る(あるいは達人相手に押しきられる),ということになっている.
とんでもない話だ.
もちろん達人は、その場でとんでもない屁理屈を思いついて大逆転をやりますよ.当然そういう事はあります.ある種勝負ですからね。だけど,それに注目してしまうと交渉の本質を見誤る.
まず,交渉をゲームだとすると,その構造に誤解がある.たとえばオセロのような,有限の領域を互いに奪い合うゲームと言うものがある.どちらかが勝てば,その分だけ片方が負けるというゲームである.しばしば誤解されるのだが,交渉はこのような構造を一般にはとらない.
もちろん,中にはそういう交渉もあるが,一見するとそのように見える交渉であっても注意深くみれば,違っているものだ.どう違っているかというと,まず,交渉では必ずしも互いに非協力的ではない.
相手の利益を最大化することが自分の利益の最大化に繋がる,そういう回答がしばしばあるタイミングで見出されるのが交渉というもので,いわば協力することでより広く解決策の可能性を探索することが可能になるのだ.
こうなってくると,交渉の具体的なイメージが徐々に掴みやすくなってくる.つまり,交渉の本質は交渉の場でなされる合意形成よりもむしろ,事前準備のリサーチにある.そこで,自分と相手の置かれている状況ととりうる選択肢を徹底的に調査するのである.むろん,自分の最善手は相手の選択によって異なってくる.それを含めて,交渉に望む両者の置かれている構造を可能な限り明らかにし,選択肢とその帰結について十分な調査をおこなうのである.
この事前のリサーチがあればこそ,本番でのアドリブが冴えてくる.問題の本質的な理解なくして,いきなりその場でとんでもないどんでん返しを思いついたりするなど,到底ありえない.そして,馴染みがない相手や状況であるのなら,それを早くから認識し,徹底的なリサーチが必要になる.
その上で交渉に臨めば,気後れする必要も無ければ無理やりこじつけた屁理屈をでっちあげる必要もない.やるべきことをやって最適な選択肢を選ぶのが交渉というもので,そこが本質でありあとは瑣末な装飾にすぎない.
おそらくは,事前の徹底したリサーチは,本番の予行演習あるいはシミュレーションという役割も持っているのだろう.
また,非協力ゲームとして開始される交渉が,その進展にともなって協力ゲームになりかわる時点を,それを深く理解していない第三者から見ると,達人のみに可能な壮絶なアドリブに見えるという場合もあるだろう.
ガチの修羅場が発生し,ヅゲザーを執行した.
しかし,しばらくやってなかったこともあり,切れが悪くて決まらなかった.
決まらなかったヅゲザーだけが招待される天国というものがあり,怒られが発生してヅゲザーを行った結果討ち果てたとしても,翌日には爽やかに蘇って新たな怒られが発生するとされている.
ミカンを収穫した。
ばかでかいダンボール一杯半とれた。
今年はいろいろあって、かなりリスの被害があったが後半は頑張った。
今年も恐竜(シジュウカラ)がうちで繁殖しようとしている。
おはようございます
今更ですが俺もこの計算機を使うことになりました.
連休はほぼ何もせずに寝ていたといえよう.上は市内の喫茶店のまえに並んだ一家の自転車.
寝てばかりというのも具合が悪いので,みかんジャムを今年もやっていきます.
今年は天候のせいもあり,去年の半分ほど16kgしかとれませんでした.
まず,表皮を剥きます.剥いた表皮は刻んでジャムに入れます.ジャムに使うのは,この表皮と内部の果実です.表皮と果実の間にある,綿のような組織は苦いという話なので,使いません.
つまり,このあとふたたび皮をむいて実だけにし,そこからふつうみかんとして食べる部分をほじくりだします.種があるのでこれはできるだけ除きます.種も苦いので.種の除去では子供がかなり貢献しました.すごいぞ!
こうなります.ここから何度かゆでこぼして苦味をぬいてから砂糖をいれて煮込みます.左の四角い容器はレモンカード1kgです.
できました.最後に瓶ごと煮沸して加熱し,冷めないうちに内部の圧力を一旦ぬいてふたをきっちり閉めると,このように市販のジャムの瓶のようにふたが内側に凹み,大気圧がかかっていることがわかります.こうなれば完全に密閉されており,内部が清浄であれば常温で保存することができる.
用事で京都にいった.琵琶湖まで,ちっこい峠を越えればすぐである.
このようなかっこいい菓子を売っていたのでみやげで買ってきた.
スキーに行った.
子供が上手に滑れるようになったのでよかった.もうダメかと思ったが,気合でいったらなんとかなった.
ものごとを学習するのに必要な情報には2種類がある.一つは「こうやると良い」というものであり,学習者がとった選択に応じて何らかの「よいこと」が起きることで,それが良かったという事を伝えるもの.もう一つは「こうやるとダメである」というもので,これはさっきの逆である.
仮に前者をポジティブイベント.後者をネガティブイベントとよぶことにしよう.
ある程度複雑なものごとをおぼえるうえで,どちらか一方だけで済むことはありえず,かならず失敗が発生する.このネガポジ割合が重要であって,やはり「いいこと」ばかりではアホらしくなって飽きるのである.P/N 比は 8:2 ぐらいが良いのではないか.根性があれば7:3ぐらいまではいける.しかし9:1では飽きる.
ということでいえば,教える側は,まずは8:2を実現するにはどうすればいいか,というところに着目すべきであり,そこさえ実現できれば,あとは勝手に学習して上達する.
教授内容は8:2の比率を維持できる程度の難易度カーブに設定されるべきで,それ以下では飽き,7:3を超えると超人しか生き残らない.
一見,不連続な超越的進歩が起きたり,あるいは人類の範疇を超えた才能が存在したりするように見える場合がしばしばあるが,それは立場の違いによる見え方の相違でしかなく,実際にはこのような地道で自明な連続的変化だけが存在するのである.
今回でいうとどこが気合だったかというと,8:2を実現する上で障害になっている箇所を見極めるところである.障害になっている箇所というと,事前にそういう箇所が我々の認識あるいは個別の事情とは独立かつ客観的に存在しているかのような書き方であるが,それは言語表現の持っている限界というものゆえにそのような表現をとらざるをえないだけであり,実際には個別の事情と天候などの日々の状況で課題のありかたは異なるのである.
スキーとは多数の関節と筋肉を,連続的かつ素早く変化しつづける状況に応じて協調的に用いるという活動であるから,多様な状況から独立な問題点などというものは存在しない.
ものごとの進歩は「自分はできる!しかしまだまだやることがある」という状態を如何にして維持するのか,というこの一点に尽きる.こどもにスキーを教えていてそう思ったが,事情は大人も同じである.
庁舎の桜.食堂側からは見えないのが残念だな.
週末はおおむね何もせずに寝ているが,今週は自転車を洗ったので良かった.