一見すると不連続な,過去と断絶しているかに見えるイノベーションであっても,その内実は自明な一歩の積み上げなのだ.
さきごろ自宅のコーヒーシステムに偉大なるKaizenがもたらされ,ほぼ失敗なく完璧なコーヒーが抽出できるようになった.これを実現したのが,豆の量の測定と適切に詰めるための道具である.
豆の瓶に入っている小さいカップのようなものが,豆の量を測定するマスで,これに一杯分がエスプレッソ2人前である.ガラスのコップは底を使ってひいた豆をエスプレッソ抽出装置の皿に詰めるための道具である.
これまで計量スプーンなどを使っていたが,アレでは誤差が大きすぎてダメである.たまたまであるが,この昔俺が陶芸教室で作ったカップがちょうどのサイズだった.
やはり測定と目的に合った道具が結果の再現性には不可欠ということだ.言葉にしてしまえば,当たり前の事だ.このような自明な積み上げによって,うちのコーヒー抽出システムは構築されている.
みんな勉強して頭がよくなり,それに応じて世の中もよくなっていく,みたいな素朴な信仰が,わりとあったと思います.
そういう信仰って単なる信仰で,特に根拠も普遍性もない.たとえば昔のことを調べるとわかるがそんな発想は昔の人には無かったわけです.
なんでそういう事がわかるかというと,たとえばブリューゲルのバベルの塔の絵をみると,古代ローマの建築とゴシック聖堂のごちゃ混ぜぽい構造になっている.
バベルの塔は昔の超文明の話なので,たとえば今の人がこれを絵にしたら,なんかSFぽい構造物を作るでしょう.なんでそうなるかというと,理想,あるいはあるべき姿というのは未来に存在しているし,今の我々は徐々にそこに向かって頑張っている.昔はわしらもアホだった.しかし明日は違うぜ.そんな確信があるから,「もっとすごいもの」を描くときは,そういう表現になる.
ところでブリューゲルの時代からしたら,ゴシックも古代ローマもむっちゃ昔の話です.つまりブリューゲルの時代には,古代超文明というのを想像しようとしたら,そのモデルは何百年か昔の社会にもとめる,というのが普通だったわけです.そういう雰囲気が世間で共有されてないと,そういうものを描いても見た人に意味が解ってもらえず,カネも払ってもらえない.
素朴に外挿すると,この発想が「したがって未来はあかるい」あるいは「俺たちは賢く偉大なものになっていく」という結論に導くことはあまりありそうもない.よくて現状維持,悪くすれば文明の黄昏みたいな発想になるのではないだろうか.
そんなような事をときどき思うわけです.
上野の科学博物館に久々にいきました.
それから,巣鴨の高桑さんのお店で夕食をいただきました.
庭のマメ科植物に青虫が大量についており,葉っぱを食べ尽くしたあとサナギになった
おもしろいので水槽に拉致して見ていたところ,出てきたので撮影した.
このように,よくみるとサナギの中に蝶ができあがっていくのが外から見えるのである.姿勢は,サナギになる時の青虫のままなので,まぁ青虫がサナギになって蝶になりました,ということになるのだろうが,一回青虫が完全に溶解してそれがこの殻の中で蝶として再構築されて出てくるというのは,どういうことやねん.どんな進化をしたらこういう発生経路をたどるようになるんだ.
最近知ったことなのだが,歌舞伎では長い演目のおもしろい箇所だけをとりだして上演する,ということが普通に行われているらしい.
この慣習を知ったおかげで,自分が「坂の上の雲」の日本海海戦の巻しか持ってない事と,「神々の山巓」の1巻しか持ってない事が正当化されたような気がした.
三脚買った.横ヨド.
つけっぱなしは邪魔なので(スコープに搭載できない)ソフトケースのポケットに収納することにした.
横浜でみかけた珍しい車両.
メッサーシュミットKR175といい,「未来世紀ブラジル」に出てくるので有名である.定員二名.
ドナウ川とライン川の源流が洞窟で繋がっているらしい.
ドナウ川の源流の町はドナウエッシンゲンというのだが,ここから出発したドナウ川は,20kmほど流れたところインメンティンゲンのあたりでいきなり地下に潜って鍾乳洞を流れるようになる.再び地上に出てくるのは10kmほど先の北東の町トゥットリンゲンである.
ところがこの洞窟は,実は地下(洞窟なんだから当たり前だが)でライン川水系のラドルフツェル・アーハも繋がっているのだ.
しかも,このまま石灰岩の侵食が進めば,将来的にはドナウエッシンゲンからの水は全部ライン川水系に流れるようになると言われているのだそうだ.地下で分水嶺が密かに移動中ということなのである.