妻チャリを整備した.9S用のスペーサを入れるのをわすれてたので,スプロケがグラグラだった.アホか.
しかも今更さがしてもこのパーツが見つからないとくる.アホか俺は.しょうがないのでむかしの8Sのスペーサをグラインダとヤスリで削って自作した.
また,チェーンは KCM ミッシングリンクでつなぐことにした.これが圧倒的に掃除が簡便で,しかもやり残しがなく実行できるので良いと思う.
社会の前提としては,人間はまともであり法律を知っていてそれを守るつもりがある,というあたりに要約できると思う.
したがって,「こいつは悪です」という事を言う場合はそいつが具体的にどのように悪なのかを証明する必要がある.それがなされない場合はフェイル・セーフして前提に戻り,真人間であるという判定になる.
法律に限らず一般に,前提とされている事柄とは違うことを言う場合,言い出した奴がそれを証明する必要がある.これを挙証責任という.
もし挙証責任が裏返って,前提の成立についていちいち証明が必要になれば,当該規則の運用のコストが莫大なものになり,その結果規則が有名無実化する.それは最初から何も既定が無いよりも悪い事であり,社会が成立しなくなる.
しかし,人間が法律を知っていてそれを守るつもりがある,という前提は必ずしも自明ではないし常に成り立つわけではない.
また個々のヒトについてそれが成り立つかどうかも予測することは簡単ではないし,個々のヒトがどうであったかにそのありようがいちいち左右されることはほとんどない.
したがって,法と社会は統計力学的な装置であると言える.
作家の人格と作品の価値は独立であって無関係である,という意見を時折みかける.熱心にこれを信奉する人もある.
私見ではこのような意見はまったく馬鹿げており,考慮に値しない.最近読んだボルヘスの文学評論にも,そのような意見があったのでなるほどと思った次第だ.
いわく,作家も人の子であるからして人生のある時期に極めて素晴らしい人物となる瞬間がある.つまり数学的に言うと人柄の素晴らしさは上に有界で,その最小上界となる瞬間がある.そして,それを上回る人物を造型する事はその作家には不可能である.ドン・キホーテのほうがダルタニヤンよりも勇敢なのはこのためであって,なぜならばデュマよりもセルバンテスの方が勇敢であるから.
手法がいかに進歩してどんな立派なデータが手に入っても,分析者のオツムよりもマシな結論が得られる事はありえない,と言い換えることもできる.
このように言い換えるならば,作家の人柄と作品の程度に関するボルヘスの主張も自明に思えてくる.たしかに俗物が読むに値する作品を書くことなど到底できそうもない.
お利口さんで聞き分けの良い真人間でなくては価値の高い作品を作ることはできない,などという主張はこの話とは無関係です.そのように解釈するひとはいないと思いますが念のために断っておきます.
明日に向かって激走
神社にはよく砲弾がある
夏ですな.しかし未だ梅雨はあけず,午後はあちこちで雹が降ったとか.
自転車に乗った,知らん老婦人に声をかけられた.かっこよかったらしい.主に自転車が.
自由研究です.
砂糖を再結晶させてでかい結晶を作る実験です.
たしかにむちゃくちゃデカくはなったんだけど,なかなか綺麗な結晶にはならないね
なかなか難しいもんですなぁ
大学で授業があったので,ついでに自転車を持っていって六甲山を走ってきた.
阪急六甲から登りはじめて,六甲ケーブルの谷へ.そこから道沿いにループ橋などを通って登っていく.下半分は傾斜が非常に強く,特に沢沿いにケーブル駅に向かう道路は傾斜のつけかたが雑でまっすぐなので手強い.
ここは展望台.標高670mで,ここまでくるとけっこう涼しい.
稜線上で日がくれた.稜線は700mから900mぐらいで,日がくれてからは本当に涼しい.ケーブル終点あたりから山頂までは,まだ200mぐらい登るので,時々下りはあるがそれなりに疲れる.
山頂直下の道路からの眺め.
コースの多くの部分は全く街灯もなく,森の中で完全に真っ暗闇で,ヘッドランプの明かりだけで走ることになり,久々に人生がシャキっとした.イノシシが居た.