いくつかの事情で積極的にはお勧めできかねる本なのだが最近読んだもののなかで(論文もふくめて)もっとも感銘があった.
人間の行動には,猿の群れの中で何らかの最適化になっている必要があるという非常に根深い制約があり,科学もその例外ではない.
だから,研究が明らかにした内容やその解釈だけでなく,研究室の運営,研究の手法や方針も,群れの力学あるいは秩序の作用を強く受ける.
動物の認知の研究は20世紀から最近にかけて,そのような制約を強くうけてきた分野で,脊椎動物の認知や知能の研究にはネズミを使うべきであるとする群れと,鳩を使うべきであるとする群れと,野外で猿の群れを観察すべきであるとする群れと動物園で猿の群れを使う群れなどがあり,それぞれ対立したり協力したりしながら社会をやっているのである.
当該書籍では研究者やそのグループ自体は研究対象に含まれていない(あるいは,含まれていると明示的には書かれていない)が,研究者の行動やそのグループに働く力学は完全に猿の群れのそれであり,実際にそれを強く示唆する記述も複数見られる(動物園の園長をチンパンジーの群れがαオスとして遇したエピソードなど).著者の知的技量から考えて人間社会や科学のありようと猿の群れとの相同性に無自覚であるとは到底考えられないので,表立った論争を避けるためにこのような構成にしたのかもしれず.
そのおかげもあってか,やや散漫で読みにくい印象があるが,課題の性質上こうならざるをえないのかもしれない.
本文にもでてきますが,重層的,あるいは複合的な社会構造が人類に特有なのかな,と思いました.具体的にいうと「それはそれ.これはこれ」みたいな話とか「出るところに出る」などの概念ですかね.あとはべつに普通の猿と変わらないというか,むしろ,いろんなところでは普通の猿に人類は負けてますよね.
この手の,自分あるいは自分のグループが研究対象の一部になっているために自分バイアスがかかってしまうようなテーマについていうと,だいたいの場合で自分要素が周辺部に,あるいは凡庸な存在にシフトしていくような方向性が,より普遍的で本質に近いのだろうな,というのが最近の感覚です.
たとえば,考えたり認識したりしているのは人間だけではなく動物一般に普遍的に見られる現象あるいは能力であるとか,地球は宇宙の中心ではないとか,我々がいま使っている座標系は特別なものではないとか,まぁそんなような科学全般に見られる発展の方向性のことです.
そういう周辺化圧力を感じる理由をすこし考えてみました.
自分要素が全体のなかのどこにありそうか,というのを考えると,特段の情報が無い場合はどこらへんという偏りは無くて一様に散らばってると考えるしかないわけです.だから中心的な位置をたまたま占めているという願望をそのまま結論にしてしまうのはまったく馬鹿げた発想というしかない.半ば実際的な,半ば確率論的な憶測なわけですが,どうでしょうか?
とにかくこの本には文化や社会をすべて猿の群れに還元してしまうパワーがあるので,あまりお薦めできない.ゲハハハ.
こどもの一時記憶スタックがどんどん強化されており,考えた結果に基づいて考える,というのを何段も組めるようになっているのがわかる.
ウォー.人類.おそるべし.という印象をうけた.
スキーなども,ものすごい勢いでできるようになっていて,まことにその成長可能性たるやものすごいものがある.もはや俺の時代は完全に終わったといえる.
自然言語プロパーな問題は,答えに「合っているもの」と「まちがってないもの」の二種類があり(厳密には他に「まちがっているもの」もあるのだが,これを選ぶ奴は論外という前提でこの記事はかかれています),「まちがってないもの」がたまたま自分の意見に近かったりすると,ついそれを選んでしまい,出題者の術中にはまってクソの海に沈むのだ,という話で妻と盛り上がった.
正解は,文中に記述があるもののほうである.
セイコーの自動巻を山でなくしてからも,以下に列挙する条件を満たすものを,のんびり探したんですよ.なくしたやつはチタン外装の自動巻4Hzパワーリザーブ表示つきクロノグラフでしたが,その後,方向性が変わってこうなりました.
外観の好みは,20世紀最高の時計製作者 George Daniels 先生の影響ですが,このスタイル(17世紀から19世紀はじめのブレゲ様式)とは何なのか,ということを少し考えてみると,その時期と造型から見て新古典主義,いわゆる「ポンペイ発掘以降に起きるギリシャ・ローマ様式の何度目かのリバイバル」と言われる潮流ですが,その典型的な一例になると思います.
ただし時計については簡単に「新古典主義ですね」と模式図的に済ますことができない事情があります.その理由は,ちょうどその頃に海洋クロノメーターの開発が行われていて,根本的な技術革新が多数あったからです.事実上,その当時に現代の機械式時計の根幹が固まるのです.時計は身分階層を示す社会的な記号である以前に,時間を測る計測器機なので,やはりその機能的なありようや,その背後を支える科学技術などの知識体系が,それまでに存在しなかった造型の基本的な方向性を規定してゆくという流れがうまれます.
具体的にいうと,この時代に,時計の精度が良くなったために新たに細かい時刻を表示する意味ができたり,時間精度を改良する過程で工作精度や設計の技術が向上し時刻以外の情報を表示することが可能になったりしました.これらを一つのパッケージとして製品にまとめたものはその時点まで存在しなかったわけで,この時期に確立したデザインは,後の時代から見ると偉大な先例として一つの規範に映るわけです.
つまり時計製作はこの時期に,ギリシャ・ローマ意匠の何度目かのリバイバルにとどまらない,後の時代にとって古典となる新たな時代を画する様式を確立したと言えると思います.たとえば,中につまった細かいレバーや歯車を見せるという発想は新古典主義とは独立なものに見えます(新古典主義にあまり詳しくないので実際のところはよくわかりませんが).こうして一旦成立してしまった時計の古典様式から見ると,以後はすべて(業界の特異な体質から考えると)その復興,ヒネり,反発ということになるのでしょう.
ちなみに,業界の体質というのは,航海クロノメーターの開発の頃から時計の仕事をやっている屋号ほど偉い,とするタコ壺的年功序列体質のことです.
上越新幹線で売っているこのアイスクリームは異常にうまいので,紹介しておきます.