党派漫才と年末 (2018/12/31)


党派漫才

アメリカ社会に走る深刻な亀裂 〜溶けてゆく現実とコメディの境界線

笑いに仮託した党派的振る舞いの陥った罠についての興味深い考察である。2016年の記事だが今はもう少し状況が固定化し深刻化している。また、日本でも類似した状況が見られる。

この種の番組の司会を、ジャーナリストではなくコメディアンが行うのはなぜか。それは報道という大仰な使命など持たず、笑いだけを生業とするコメディアンにこそ、踏み入ることが許される領域があるからだ。 つまり、ゲストがたとえ大統領候補の大物政治家であっても、コメディの名の下に、あるいは不躾な質問や指摘を行うことで、社会の実情を炙り出す役割が彼らに期待されている

これは我々の社会の持っている脆弱性ではないか。我々の社会には、神託を宣べることができる理想化された道化を待望してしまう脆弱性があるのだ。コメディアンが社会構造を超越し、全体最適な観点から(あるいは神の視点から)適切な事を言う場合もあるが、コメディアンに常にそういう事が可能なわけではないし、ましてや全員にそういう事ができるわけでもない。

それまで嘲笑してきた人物は大統領になる男であり、アメリカ社会の半分以上が、コルベアのコメディに笑っていなかったことが、その瞬間明らかになった。コルベアはただ、自分と似た意見を持つ社会の少数派に向かって、内輪ウケで笑いが取れる安全なネタを、延々と繰り返していたに過ぎなかった

たしかにそうなのだが、内輪で確実にウケがとれるネタと、俗流の正義感が組み合わさってできあがる誘惑に抵抗できる個人が実在しないならば、この批判は意味をなさない。ではそういう超人は実在するのだろうか。俺にはそうは思えない。つまりこのような非難もまた神託を待望する心理の表明にすぎないし、それは裏切られる運命にあるのではないか。

深刻な国内の分断が可視化されたあの場面で、いったいどんなネタが相応しかったのか、残念ながら現時点ではこれは誰にもわからないとしかいえないだろう。だから当該コメディアンが不甲斐なかったわけではない。ただ、笑いは万能ではない、という事実があるにすぎない。

そもそも笑いとは正常化バイアスであり、弱者やマイノリティーを嘲弄するネタがまかりとおる事からわかるように主流派の特権の行使である。

だから社会として、笑いに社会正義や神託を期待するのは全くばかげている。俺たちは地道なリサーチと徹底した考察をやっていくしかない。

2018/12/31

本年もお世話になりました。

洗濯機のプロペラの裏側についている汚れです。カビと細菌の一緒になった謎の生態系が構成されていました。

クリスマスの様子です。

最近、以前から持っていた赤道儀に地上望遠鏡を載せてモーター駆動追尾を復活させました。

わずかな露出時間であっても日周運動でブレるので、追尾しながら撮影すると月面も綺麗に写るわけです。

M42は露出20秒(ISO1600)です。こうなると追尾がないと手も足も出ませんな。

北極星を使っての極軸調整はパソコンのプラネタリウムソフトを使って北極星の場所を探します。

最近は寒いですね。今年も年賀状をやりました。来年もよろしく。


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