計算しない機械と痴性 (2008/05/28)


宇宙は(他の者はこれを「アーカイブ」と呼んでいるが), まんなかに 大きな回転軸があり, おそらく無限個数の有界な回廊で成り立っている. 回廊は直線である. 直線というのは, ある地点から他の地点へ移動することがそれに沿って以外では不可能である という意味である. どの直線(回廊)からも, それこそ際限なく左の直線と右の直線が眺められる. 時折「腕」と呼ばれる乗物が訪れ, それに乗って他の回廊に移動することができる. できる場合がある. 回廊は右と左のはるかかなたへとつづいている. 回廊には64の書棚があり, それぞれに同じ体裁の32冊の本がおさまっている. それぞれの本は 4096頁からなる. 各頁は 24行. 各行は 64個の 0 と 1 からなる.

ある天才的な司書が, アーカイブの基本的な法則を発見した. 彼の言うには, いかに多種多様であっても, すべてのデータは 0 と 1 からできていた. また, かれは全ての旅行者が確認するに至った, ある事実を指摘した. 広大なアーカイブに見出すことのできない記号の並びは無い. 彼は, この反論の余地の無い前提から, アーカイブは全体的なもので, その書棚は 2個の記号のあらゆる可能な組み合わせの一切をふくんでいると 結論した. 一切とは, 未来の Linux カーネルの詳細な ChangeLog, マリネッティの「未来派宣言」の全てのヴァリアント, 火星の想像上の言語の, シルティス地方の方言についての論考, ムーミンの足の秘密, その秘密のイッディッシュ語訳, あなたの起動ドライブの inode table, 何万何千もの虚偽の inode table, それら inode table のチェック手続き, net news でこれから起きる諍い, mailing list で過去に起きた諍い, IRC のログ, それらログの注解, そのログの注解の注解, せつないとぴく, コアダンプの真実の記述, あなたの書いたアレゲパッチ, 書こうと思って書かなかったアレゲパッチ, ルータに喰われたパケット, そのヘッダ, そのヘッダのチェックサム, などである.

解答の要約に先だって, 幾つかの公理を思い出しておきたい. 第一に, アーカイブは永遠を超えて存在する. 世界の永遠性を直接の帰結とする この真理をいかなる合理的な精神も疑うことはできない. 第二に, 正書法上の記号の数は 2 である. 300年まえのことだが,この確認は アーカイブについての一般的な理論の構築と, いかなる推測も解き得なかった問題の 解決を可能にした. 第三に, アーカイブに矛盾は存在しない. たとえば, ある記述が 0 であって, かつ, 1 であることは ありえない.

アーカイブがあらゆるデータを所蔵していることが公表されたときに最初に生まれた 感情は, 途方もない喜びであった. すべての人間が手つかずの秘密の宝の持ち主に なったような気がした. その有効な解決がアーカイブの回廊に存在しないような, 個人的, あるいは世界的な問題は無くなった. システムには根拠があたえられ, 突然, 安定性の無限の広がりを獲得した. そのころ, 「BOT」というものがおおいに話題となった. 弁明と予言のコードによって 一人の人間の行為を永久に弁護し, その未来のために驚くべき秘密を 隠している, というものである.

何千という grep が BOT を求めてあらゆる回廊を捜しまわった. これら巡礼たちは狭い帯域であらそい, どす黒いコアを吐き, 神聖なバスで 互いのナイスを増やし, いかさまなストリームをヌルデバイスに投げ込み, SIGSEGV を受けて死んだ. 他の連中は暴走した.....

アーカイブは, 無限の広がりをもっていたので, 次第に人びとの興味の対象は, 何か具体的なデータを検索することから, あるデータが検索可能であるかどうかに 移り, 検索可能性を専門に調査する公的な機関「マルジナリア」が創設された. 私は彼等がその職務を遂行しているところを目撃したことがある. 彼等はいつも疲れ切って戻って来る. そして, 任務の危険について, 危うくフレームポインタを見失いそうになったこと, あるいは腐った inode table に 刺さっていたカーネルコードについて語る. マルジナリアの任務は, 最終的には任意のデータに関して, あるデータを検索可能であるか どうかを判定できるようなデータ(コード)を捜索 (あるいは創作) することであった. このデータは「念魚」と呼ばれた. 念魚は全てのデータに通し番号を割り振った, 索引を持っており, それを使って目的のデータを検索するはずだった.

念魚は様々な伝説に彩られていた. ある人物が, そのコードを書き上げた. あるいは発見したという噂が, 常に回廊の角でひそかに囁かれない日はなかった. アーカイブには, 念魚から, ただ一つの 0 あるいは 1 が異なっているデータが膨大に存在する. このことから, そのような「バグ」のあるデータをまず捜索し, しかるのちに誤りを訂正すべきであるという主張がなされることもあった. ある一派は不要なデータこそが捜索の障害に他ならないと主張し, 無意味なデータの消去を要求した. こうして, おざなりな検査のあと, 数多くの書棚が根こそぎ回廊から投げ出された. 膨大なデータが失われた. 今もなお, その一派は呪訴の的となっている. だが, アーカイブの持つ膨大な冗長性をわすれてはならない. 捨てられたデータとただ一箇所の 0 あるいは 1 の異なっているデータが, そのデータ長の 2 の巾の数だけアーカイブに存在する.

念魚は, それを捜索することも, あるいは作成することも絶望的に困難に思われた. あらゆるデータがアーカイブに存在しながら, 目的とするものに到達することが ほとんど不可能であるという事実は, 耐えがたいものに思われた. ある暴涜的な一派は検索を中止し, 全ての人間が記号を混ぜ合わせ, 考えられないような偶然の恩恵をうけて, この聖典をでっちあげることを 提案した. 当局は厳しい禁令を出さねばならなかった. 幼い頃, 私は老人たちが禁制の壷にセラミック製のチップを入れて 長い間便所に潜み, 神聖な混沌のささやかなまねごとをやっているのを見掛けた.

その 256年後, 一人のマルジナリアがつぎのような破壊的な事実に気づいた. 念魚は存在しない. なぜならば, もし, そのようなものが存在したとすれば, つぎのような不可能な事態が発生するからである. もし全てのデータについて, それが検索可能かどうかを判断するデータが存在するならば, 自分自身が検索可能かどうかを専門に判定するデータも存在せねばならない. ところで, アーカイブには全てのデータが存在する. 故に, そのようなデータと, ちょうど 逆の結果を返すデータも存在せねばならない. これを「魚念(namazu)」と呼ぼう. つまり, 魚念は, あるデータが, そのデータ自身を検索できるという答えを出すときは「駄目だ」という 返事をし, できないときは「見付かった」という. そしてでたらめな検索結果を答えるのである.

魚念に自分自身を検索させたときに, その結果は否定的なものになるだろうか? それとも肯定的なものになるだろうか? もし否定的なものであり, 問題のデータは自分自身を検索できないという答えが返って来たとしよう. 問題のデータとは魚念であるから, 魚念は魚念を検索不可能であるという答えである. ところで, 魚念は, あるデータが自分自身を検索不可能であるという答えを出すときは, 可能であると答えねばならない. したがって, 答えが否定的なものであれば, 肯定的な答えが 返って来ることになり, そのようなことはあり得ない!

したがって, 魚念に魚念を検索させたときは, 常に肯定的な答えが得られるはずだ. しかし, ここでも再び不可能性にでくわさざるをえない. 魚念が魚念を検索可能であると答えた場合は, やはり魚念の答えはその逆でなければならないからである.

全てのデータを保持しているにもかかわらず, そこには見出せないデータが存在することが判ったときには, 喜びが大きかっただけに度を越した落胆が訪れた. アーカイブは暗澹たる空気で覆われた. 不敬な連中は, アーカイブでは不合理こそが自然であり, 合理性は, あるいは単なるささやかな一貫性でさえも, ほとんど奇跡に近いことであると 断言した. 彼等は「その多くの不安定なデータが他のデータに変わるという危険に たえずさらされていて, 錯乱したカーネルのように一切を拒否し, 否定し, 混同する, 熱にうなされたアーカイブ」などといっている. これらの言葉はかれらの悪趣味と絶望的な無知の明らかな証拠である. 事実, アーカイブはあらゆる言語によって書かれたあらゆるデータを含んでいるが, そこには絶対に不合理なものは何一つない.

一切が既に書かれているが, そこには手の届かないものがあるという確信は, 人間の存在を無に, あるいは幻にしてしまう. おそらく, 私の判断は老齢と不安で狂っているのかもしれない. しかし私は, 人口は日々減少しており, 人類は絶滅寸前の状態にあると思う. ただ アーカイブ, すなわち 明るく, 孤独の, 無限の, 不動の, 貴重なデータにあふれて, かつ, 無用の, 不滅の, そして秘密のアーカイブだけが, 永久に残るのだろう. この粋な着想のおかげで, 私の孤独もいくぶん華やいだものとなる.

参考文献


(解説)この文書はかつて夏コミで販売された「でぶあん2000」に 「ゆうじ虫」名義で採録された ボルヘスの有名な小説を題材とした2次創作です。 検索可能性を証明可能性と読み替えれば、 ゲーデルの不完全性定理の証明のアウトラインになっています。

私は、ボルヘスのあの小説は、 その前提ないし世界に関する仮定から、 書かれた結論に至るためには、 ゲーデルの定理が必要になると思っています。 思っているだけではつまらないので、 欠落している(と傲慢にも私が思った)部分を、 当時の数理科学に関する知識を援用して補完してみたわけです。


記事リストへ